かつて日米間に「密約」があったことが外務省の有識者会議で報告された。
1960年、日米安保改定の折、アメリカは日本にその後も核兵器を持ち込む密約を交わしていた。朝鮮半島有事の際の在日米軍基地使用についても密約を交わしていた。
1972年の沖縄返還のときも「核の再持込み」の密約があったと疑われるし、沖縄の原状回復を本来アメリカがやるべきところを日本が400万ドル肩代わりするという密約も判明した。
一貫して密約を否定してきた歴代内閣が嘘をつき続けてきたことがはっきりした。
非核三原則、「作らず、持たず、持ち込ませず」と言いながら、アメリカが戦艦や飛行機に核を搭載し日本に寄港することや、飛来することを陰で容認してきたことがはっきりしたのである。
しかし、マスコミが力むほど一般国民はこのことに怒っていないような気がする。
なぜなのだろうか?
1972年。沖縄返還協定の過程で、土地原状回復費用400万ドルの密約を毎日新聞で報じた西山太吉さんは今回の報告に対して意見を述べた。
「政府の密約は今までまったく追及されてこなかったが、ようやく三十数年たって検証された。日本の構造や日本全体を覆っているグレードの低さが問題。司法も政府権力もマスコミも。そして主権者の政治意識も全部その中に入ってくる」
要するに主権者の政治意識のグレードの低さが、この政府の嘘を放置してきたという趣旨である。
つまり一般国民の程度が低かったと言っているのである。
1972年当時、密約の存在を報じたが、密約を裏付ける公電書を外務省事務官から手に入れ、それがばれたために国家公務員法違反を問われ有罪となった西山氏にしてみれば、38年前の自分の主張が正しかったことを高らかに訴えたい気持ちは分かる。そのために毎日新聞を辞め、密約報道が正しく評価されないままに時は経ったのである。
これでやっと西山氏の名誉回復がなされたという声もある。
3月19日の毎日新聞は
「西山さんは自ら報じた密約疑惑について『氷山の一角』と指摘し、その後の『思いやり予算』につながる日本側の財政負担を決めた『密約』について『最も国民が知らなければならないものだ』と力説した」と報じている。
しかし、本当にそうだろうか。『密約』は本当に『最も国民が知らなければならないもの』だろうか。
今回の密約報道には、国家が嘘をついたことに対する告発と断罪の強いトーンが感じられる。
『国家の嘘つき』それを許すまじ。
しかし、私たちは知っている。
本来、『国家は嘘つき』なのである。
国家が正直だったことなんかあっただろうか。特に外交において国家は正直であったためしがない。外交とは常にその時点では国賊的なものであることが多く、そのために相手国とだけに密かな約束をし、それについて国家は国民に嘘をつくのである。
国家はいつも嘘をつく。
私たち日本人はつい65年前にそのことを思い知らされたのではなかったか。
戦争に負けているのに勝っているという嘘。
鬼畜米英という嘘。
憲法9条がありながら、自衛隊という軍隊を持ち、それを海外に派兵までしているニッポンという戦争放棄国。復興支援といいながら米兵を根気よく運んでいたイラクの航空自衛隊。これなんか欺瞞の最たるものじゃないか。
私たちは知っている。
国家は嘘つきである。
今回の密約判明について言えば、「ああやっぱりね」という感想を多くの国民が持ったのではないか。日米関係とはそういうものであることを、私たちの多くは体験的に知っているのである。アメリカが正義の戦争と言えば、それを検証することもなく賛同してしまうリーダーを私たちは選んだし、軍隊を出せないなら金を出せと言われて「それで済むのなら」と財政支援する政府を支持してきたのである。そしてそれが日本という国のある種の知恵として容認してきたのである。
すなわち、私たちはおそらくあるであろう『密約』を薄々知ってはいたけれど問題にしようとはしてこなかったのである。
だから『密約』は、『最も国民が知らなければならないもの』ではなく『最も知りたくないことの一つ』だったのではないだろうか。
密約とは知らせないから密約なのであって、知らせてしまっては密約ではないし、外交において密約はつき物ではないだろうか。
戦後65年間、アメリカが核兵器を日本に持ち込んだかどうかはアメリカがそれを発表しない限り分からない。
しかし広島・長崎以来、アメリカは核を使っていないことは事実だ。
今後も使って欲しくはないが、オバマ大統領が“抑止力としての核"についても否定的な見解を表明している今、核廃絶に向かっての『密約』があるとしたら、どうぞ知らないうちに日米の間で遂行してもらいたいとさえ思うのである。
たとえば、極端な想像を働かせて、小泉訪朝に関して北朝鮮との間に『密約』があったと仮定しよう。蓮池さんらの帰国の陰に金銭取引が発生していたとしよう。もしそうだとしたら、それを『国民が知らなければならないこと』として発表すべきだろうか。それを発表しない政府を嘘つきと弾劾すべきだろうか。
誰もが拉致被害者の生還を望んでいる。そのために政府が『密約』を交わしたとしたら、それは数十年後とかに歴史が判断を下すことであろう。
だから『密約』は『密約』であることが問題なのではなくて、その『密約』をかわす主体の『覚悟』との関連性、その『密約』によってその後両国の間に起こった歴史的事実によって評価されるべきではないだろうか。
岸信介の『覚悟』は、日米安保改定にあった。佐藤栄作の『覚悟』は沖縄返還にあった。
その『覚悟』の遂行のために『密約』があったのである。
そしてこの『覚悟』もまた検証されなければならないし、私たちが立たされているのは、政府が嘘をついたことではなく、その後の日米関係の評価と目の前にある日米関係を今後どうするかなのである。
そのことよりも、今回私が不思議でならないことがある。
それは、政府の瑕疵は告発するが、当時の報道の瑕疵については多くのメディアが触れないことだ。
すなわち、これで名誉回復するであろう西山太吉氏と毎日新聞の密約報道の正当性である。
72年当時のことを多くの新聞は
「西山さんは、機密電文を入手したことで罪に問われて78年に有罪が確定」
といった感じで書く。
今では「機密電文を入手」とあっさりと書くが、その入手の方法こそが西山さんが罪に問われた原因だ。すなわち、外務省担当記者だった西山氏は外務審議官室に勤める女性事務官と肉体関係を結び、その関係の中から公文書を持ち出すことを頼み、密約に関する公電を手に入れたのだった。しかも、「迷惑はかけない」と言いながら、その公電のコピーをそのまま当時の社会党議員に渡し、その議員はそれを使って国会で質問に立ち、それが引き金となって女性事務官は国家公務員法に問われたのだった。西山さんはそれをそそのかした罪で起訴された。
何のことはない、外務事務官を恋人にし、同時にスパイにしたのである。
そして手に入れた外交文書。
これは果たして正しい取材活動と言えるのだろうか。
時の政府を追及・告発するために女性事務官を口説き落とす。互いに家庭を持っていた二人の密かな交情。夫のある身の女性事務官は、西山さんに対する恋情から、その指示に忠実に従い外交文書のコピーを言われるままに手渡す。裁判記録によれば、彼女はその外交文書の価値や内容についてほとんど関心もなく、重要性も知らなかったと言う。これに対して毎日新聞と西山さん側は、国家の密約という許されない裏切りの告発のためには正当な取材行為だったと抗弁する。
その女性は西山氏と志を同じくする同志だったのだろうか。彼女もまた『密約』をかわす政府に憤りを感じる「正義の人」だったのだろうか。西山氏のほうにはそこまでして政府を追及する『覚悟』があったのだろうか。それとも、目的は手段を正当化するというのだろうか。そこに国家権力と戦う「正義の人」の傲慢さはなかっただろうか。
そして毎日新聞はこうやって手に入れた文書を野党議員に渡してしまった。
結果取材源を守れなかった。というよりも守らなかった。
これこそ恥ずべき失態ではないだろうか。それとも、国家の悪を暴くためには一官僚の人権はどうでもいいということなのだろうか。政府の『密約』をあくまで追求するという『覚悟』があったなら、なぜ西山さん辞めさせることなく第一線の政治部記者として登用し続けなかったのか。
澤地久枝さんの『密約―外務省機密漏洩事件』を原作としたドラマがある。そのラストに西山氏の同僚を思わせる新聞記者がもらす。
「ジャーナリズムの取材活動が裁判で有罪になるのは初めてですね」
果たして、女性事務官を誘惑して、機密を持ち出させることが取材活動と言えるのだろうか。それをやすやすとばらしてしまう失態の何処にジャーナリズムの矜持があるのだろうか。
もし女性ジャーナリストがその美貌や肉体を使って政治家や官僚から国家機密を密かに得ていたとしたら、人はそれを立派な取材活動と言うのだろうか。
おそらくそれも『覚悟』の問題かもしれない。そういう取材活動をしているジャーナリストもいるかもしれない。しかしそれは決して公にはならない地下活動だ。
そう。それはまるで『密約』のように密かに隠されているべきものだ。
西山さんは言った。
「日本の構造や日本全体を覆っているグレードの低さが問題。司法も政府権力もマスコミも」
もし30年数年前の密約報道、それに対する政府の嘘の答弁、それらを検証するのならば、私は、同時にこの「漏洩事件」も検証されるべきだと思う。その取材方法と結果について、メディアのあり方について、真摯に検証されるべきだ。
国家の過去を再び追求する恍惚。ならば自らの過去もさらすべきではないか。
西山さんと毎日新聞は女性事務官に対して、結果として「守る」という嘘をつき、騙したことになったのであるから。マスコミのグレードもまた低かったのである。
澤地久枝さんは『密約』の中で女性事務官にあてた手紙を披露している。
「本来責任を問わるべき国家権力が、あなたの個人的な秘密をあからさまにして指弾を加えようとしている―こんな不合理なことが行われていいのかと思います。」
「『あのとき、女として私は魔がさしたのかも知れない。しかし過ぎたことは過ぎたこと、後悔はすまい。それよりももう一度、沖縄返還交渉そのものが、正確に真実を歴史の上に記されることを願う』そういう心境まで、這い上がってきてほしいのです」
澤地さんは、この密約事件が「ひそかに情を通じ」という文脈で展開されていったことへの怒りと苛立ちの中から、女性事務官に必死の思いを伝えようとしている。
あなたのやったことは悪いことじゃない。国家の嘘を暴く正しい行為なのだ、と。
そこには女性事務官を同志として引き上げようとする反権力知的エリートのジャーナリスト、澤地久枝の強い志しがある。
しかし、女性事務官から返事はなかった。彼女は責任を問われるべき国家権力を告発しようとはしなかったし、沖縄返還交渉が正確に歴史に記されることを願いもしなかった。ただ、公務員としてはならないことをしてしまったことを詫び、判決を受け入れた。
裁判においても西山さんのように国家権力の罪を問おうとはしなかった。検察に問われるままに「ひそかに情を通じた」過程を告白した。
彼女は西山さんや澤地さんのような反権力の知的エリートではなかった。国家の罪を追求してならない第四権力の西山氏から見れば、きわめて弱い物言わぬ大衆の一人だったにすぎなかった。
彼女にとっては、日米で交わされた「密約」よりも、夫に内緒で逢瀬を続ける西山さんとの関係のほうが大事だった。
反権力に勢いがあった時代。反体制、反権力の報道が文句なく大衆の支持を得た時代。
しかし、マスコミよ、お前はそんなに偉いのか?
澤地さんの『密約』にも描かれていた西山さんと女性事務官との間のこんなエピソード。
関係が出来てしばらく続いた頃、西山氏はアメリカに出張することになる。その間にも外交文書を持ち出して送ってほしいという西山氏。快諾する女性事務官。二人の会話。
「そうだ、何かお土産を買ってこよう。何がいい?」
「そうね、香水がいいわ」
「香水か。分かった。買ってこよう」
だが帰国して久しぶりに密会した時、西山氏はその約束をすっかり忘れていた。その反対に女性事務官は西山さんが買ってきてくれるはずの香水を楽しみにしていたのであった。
国家の嘘を暴くために女性事務官を利用した「正義の人」は、彼女と間の小さな約束を守ることはしなかった。
そして、彼女は裁判を通して西山氏や毎日新聞の側に立つことはなかった。
彼女の中には、取材源を守ってくれなかった恨みと、約束を守ってくれなかった人への哀しみだけが残った。
マスコミよ、正義の人よ。
ほんの小さな約束も守れない、正義の人よ。
お前は、そんなに偉いのか。
国家も嘘をつく。
しかし、マスコミのグレードも同じように低かったのである。
その中で、西山さんがグレードが低いと言った“主権者たち"は『密約』がある事を薄々知りながら、したたかに生きてきたのである。
なぜ、今回のことで国民がことさら怒らないのかは自明だ。
『密約』を認めなかった政府にも、鬼の首を取ったようにはしゃぐマスコミの傲慢にも、世間はもうとっくに愛想をつかせているのだ。
長く日本の政治について書いてきた朝日新聞の早野透さんが36年の記者生活を顧みて書いている。
「私は、今日よりも明日はよくなるようにと書いてきたはずなのにいったい何をしてきたのか」
マスコミよ。第四の権力よ。お前に嘘を暴く資格はあるのか。
あの裁判をもう一度裁くのであれば、マスコミよ、お前は自らに問わなくてはならない。
取材源を守っているか。情報提供者を守っているか。
物言わぬ大衆を裏切ってはいないか。
了 |