『いつだって青い空―拒絶された追憶』

無駄だと判っていても、そこに行かなくてはと思った。
人づてに聞くと、金曜日、土曜日は一切の通行がストップされているという。
建前はきっとそうだろう。しかし、そこはいつだって気まぐれだったじゃないか。何がどうしてそうなるのか、よくわからなかったが、いとも簡単に通れることもあったし、まるで意地悪するようにたいした理由もなく足止めされることもあった。
とにかく行ってみないことには話にならない。もう6年も来ていなかったのだ。何が変わったにしても、ひとつひとつこの目で確かめてみなくてはならない。人づてはもうたくさんだ。不確かな情報であっても、かつてはともかく行動したじゃないか。“見る前に跳べ"だったじゃないか。
とにかく行ってみよう。

かつては来れば必ず雇うコーディネート会社があった。そこから派遣される車とドライバー。そのうちの何人かとはすっかり仲良くなり、時には家庭に招かれもしていた。何しろ2ヶ月とあけずに来ていたのだ。
「次はいつ帰って来る?」
それが彼らとの別れの言葉だった。

そのころ、私にとってパレスチナは“帰ってくる"場所だった。

最後に訪れたのが2003年の夏だったか。イラクが陥落し、パレスチナの人々は深く落胆し、巨大なアメリカの暴力とその支援で続くイスラエルの占領と抑圧の継続にうなだれていた4月。イラク陥落と関係があるのかどうか、軍事侵攻に勢いをつけ戦車とミサイルで蹂躙されたガザを走り回った6月。
(興味があればこの通信のVOL42『青い空の下の普通の生活』を読んでください)

あれ以来、私はここを訪れることがなかった。
その夏父を失ったこともあった。次の年から今従事している『報道ステーション』が始まったこともあった。
「GOTO、今度はいつ来るんだい?」
というパレスチナの友人たちの季節のメールにも、初めは「すぐ帰るよ」と答えていたものの、あれから6年があっという間に過ぎ去った。
当然のことながら最近はそんなメールも来なくなった。関心は持ち続けているが、来なくなった友人を頻繁に誘うほどパレスチナも暇じゃない。今も銃弾は降り注ぎ続けているのだから。

いつもならすぐに連絡するはずのコーディネート会社だったが、私のパレスチナ用の携帯電話に登録されている番号はことごとく変わっていた。6桁だった数字が7桁になっていたのだった。携帯のSIMカードは無用のものとなっていた。エルサレムの携帯電話屋で新しいものを買うと、「パレスチナのCHANGEは早いんだぜ」と笑われた。
それは「おっさん、いつの記憶で来てるんだい」と嗤われたようなものだった。
しかし、私の気分は悪くなかった。
そう、いつだって初めての場所で、わたしはこうしてよそ者として嗤われ、しかし立派な異邦人としてそこにいる人間と本気で付き合ってきたじゃないか。
もう何度も来たパレスチナではあるが、携帯電話屋の軽口が、私を初めてここに来たときのような気分にしてくれた。初めての土地に足を踏み入れた時の不安と興奮、期待と無防備な空想、無邪気な傲慢、満たされた国から来た人間の余裕も含めての無鉄砲さと、出会う人に対する根拠なき信頼、などなど。
記憶のパレスチナは大きく変わっているかもしれない。
それなら、初めて来た時のように行動するしかない。
たむろするタクシーの中から英語の出来るパレスチナ人を選んで交渉だ。
「どこまで行く?」
「GO TO GAZA ガザまで頼む」

ガザ。1昨年の12月27日から1月19日の停戦まで、イスラエル軍は激しい攻撃を加えガザは壊滅状態になった。2000年に始まった第2次インティファーダ(民衆蜂起)以来、たびたびイスラエル軍の攻撃が行われてきたが、今回ほどすさまじい軍事作戦はなかった。それはまさに一方的な虐殺であって、ガザを実効支配するハマスとの軍事力の差は歴然としていた。その攻撃の下に私の友人はいた。
何度か連絡を取り無事を確認してはいたが、最後に会ったのは6年前の6月だ。
今どうしているのか。
そういえば最後に会った時も、イスラエルの戦車がガザの市内に侵攻している時だった。戦車の砲塔が道行く人々を威嚇する中、私たちは「またな」と声をかけあった。

イスラエルとガザとの間のチェックポイント、エレツ。
ここを通ってイスラエルとパレスチナ自治区ガザを人々は行き来する。イスラエル側からは厳しいパスポートチェック。「なぜガザなんかに行くんだ?」と聞くイスラエル兵。「そこにニュースがあるからだよ」と言ってみたり、「友人がいるんだ」と言ってみたりする私。そのたびにイスラエル兵は信じられないような表情をみせたものだ。なぜ平和で豊かな国の人間がテロリストのいるガザなんかに行くんだ。
ある時はすんなりと。ある時は強行に通行を制限された検問所。イスラエル軍の気まぐれ検問所。私の中でエレツはそういう場所だった。

イスラエルのパスポートチェックを受けるとおよそ500メートルのまるで滑走路かとも思える道を歩くと、その先に申し訳程度の木製のゲートに掘っ立て小屋、それがパレスチナ自治区ガザの入り口だった。パスポートナンバーをノートに手書きで写す兵士。コンピュータなんかないのだった。
「ガザへようこそ」
パレスチナ側はいつだってウエルカムだった。
思い出すのは、このエレツを通る時、そこはいつだって青い空が広がっていたことだ。パレスチナの空はいつだって青い。その青い空の下にイスラエルの不当な占領と抑圧と、理不尽な殺戮があった。ガザでこれまで何体の遺体を見たことだろう。子供、女性、老人、行くたびにそうした悲しみを撮影した。
ガザで数日間取材を済ませると、再びエレツを逆から通る。

私はすっかりなじみとなったエレツのイスラエル兵にパスポートを見せ、ガザから何も持ち込んでないよと、バッグを開き、「またね」と声をかける。物好きな日本人、とイスラエル兵は思っていたかもしれない。
一度などは、ガザからイスラエル側に歩いてくる途中に銃撃戦が始まり、あわててイスラエル側の小さな事務所に走りこんだ時があった。2年の兵役の若き女性兵士は狂ったように叫んだ。「信じられない、何でこんなところで撃たれなくちゃならないの!」
それはパレスチナ人に対する叫びというよりも、自国の置かれた状況とわが身の置かれた不幸を嘆いているようでもあった。
「何でイスラエル人なんかに生まれたのかしら」
国民すべてが兵役につかなくてはならず、国防なのかどうか、はっきりとした義務感も愛国心もないままパレスチナ自治区との境界線に配置され、パスポートチェックだけならいざ知らず、突然の銃撃に逃げ惑う理不尽な任務。可愛いらしいサンダルの足元をばたばたさせながら叫ぶ女性兵士の姿を、私はある種黒い笑いの中にもほほえましく見つめていた。
こんな光景は、ここでしか見られない悲喜劇だ。差別と抑圧、占領下の中の抵抗運動、その狭間に見えた人間のうろたえ。誰だって怖いのだ。笑ってしまうほど理不尽なのだ。

そのなつかしのエレツ検問所。大きなトレーラー用のガソリンスタンドのような屋根があり、その下に兵士のいる監視ボックスがあり、パスポートチェックの建物があり、その寸前でタクシーを降り、イスラエル軍の気まぐれで通行できない時のためにしばらくタクシーに待ってもらったあの場所。

しかし、私が何回も訪ねたあの場所は大きく変わっていた。
まるでどこかの工場かと思わせるビルディングが、かつての小さな建物の変わりにそこにはあった。あたりは高い塀に囲まれ、兵士たちが数人入って居た監視ボックスは塀の奥にあり見ることも出来ない。ビルディングの敷地は金網で囲われ容易に近づくことが出来ない。入り口には鉄の門があり、そこにガラスで覆われた監視事務所があるが、その日は誰もいなかった。駐車場もがらんとしていた。
そこには人の気配というものがまるでなかった。
門のところの事務所にはインターフォンがあったので押してみた。ビルディングの中の誰かが応答してくれるに違いない。だが、何度押しても返事はない。
イスラエルとパレスチナの事実上の国境、そこにあるイスラエル軍の建物、人がいないはずがない。だが、返事はない。
ドライバーが聞く。「今日は土曜、シャバブだ、イスラエル軍が開いていると言ったのか?」シャバブとはイスラエルの休日だ。パレスチナでは金曜日がイスラムの休息日で土曜がユダヤ教の休息日、日曜がキリスト教信者の休日で、一週間に3日間休みがある、と冗談みたいなことがあるのだが、ここは国境だ。国境に休みがあってたまるものか、かつてはいつだってイスラエル兵が暇そうにしてここにいたんだ。

日本をたつ前、イスラエルに詳しい人間が、「今は多分エレツは厳しくなっているはずですよ」と言っていたが、行けば何とかなると思っていた。またイスラエル兵と話が出来、物好きな日本人としてガザに入れると思っていた。
しかし、そこにはかつてのような空気はなかった。
無邪気な日本人の無知しかなかった。
辺りにいるのは私と、ここまで1時間のドライブでいい仕事にありついたと思っているパレスチナ人ドライバー、たった二人だけだった。
少し周りを歩いてみると、イスラエルとガザの境界にはコンクリートの分離壁が長く何処までも続いていた。
これまた6年前にはなかったものだ。
私は呆然とそこに立ち尽くした。
分離壁の上空には青い空が広がっていた。
いつ来てもパレスチナの空は何処までも青いのだった。

おそらく始めてここに来たであろうパレスチナ人ドライバーがこう言った。
「昼メシ時なのかもな、しばらく待ってみようや」
エルサレムに住むパレスチナ人にとってガザは同じパレスチナ自治区であっても決して行くことのできない別世界だ。彼らはエレツを通過することは決してできないし、ここにくる意味もまるでないのだ。その逆も同じで、ほとんどのガザのパレスチナ人はエルサレムに行くことができない。

何をあせる必要がある。待ってみる価値はある。誰かイスラエル兵がそのうち出てくるさ。

しかし、私にはなんとなく分かっていた。いや誰も来ないだろう。
やはり今日は厳格な休みなのだ。ルールは変わったのだ。
私が知っているエレツはとっくになくなっているのだ。
イスラエルがガザから撤退し、今ガザにいるのは紛れもないイスラエルの敵としてのパレスチナであり、もはや占領地でさえない。反イスラエルを標榜する敵ハマスの国なのだ。
物好きであろうがどうであろうが、検問所の気まぐれで外国人が自由に出入りできる場所ではないのだ。
人の気配がまったくない、かつてとはまったく違った場所としてのエレツ。
正式な許可申請をし、許可された者だけが通行を許される国境。
何が不思議なことがあるものか。そちらのほうが常識だ。

思ったとおり、シーンと静まり返ったあたりに人が現れることはなかった。
金網の向こうの、かつて私がてくてく歩いてガザに向かった長い道路の方角から大型ブルドーザーの音が聞こえた以外、鳥の声さえしなかった。

半分無駄だと思ってやってきた私ではあったが、私の追憶は、イスラエルとパレスチナの間に出来た強固な分離壁によって完璧に拒絶されたのだった。
たたずみながら私は思った。
なぜお前は来たのだ。
なぜ、拒絶されることを予期しながらここに来たのだ。
いや、拒絶されることを期待してお前は来たのではないか。
その拒絶に打ちのめされるために、無駄を承知でここに来たのではないか。

確かに私は、私の経験が通用しないパレスチナの変化に打ちのめされていた。
ガザに入れなかったこともそうだが、キリストの生誕地ベツレヘムを取り巻く分離壁に唖然とし、同じく分離壁によって聖地エルサレムから遠ざけられるヨルダン川西岸地区の現実にも驚愕した。いまやパレスチナはイスラエルの巧妙にして陰湿な囲い込み政策の中で息を止められようとしていた。

私が来なかった時間に情勢は大きく変わっていた。
パレスチナは私の追憶をはるかに凌駕して困窮のどん底にあった。

エレツを去るときにガザの友人に電話した。
友人は言った。
「私はそちらには行けない。あなたが来るしかない。正式なプレスパスを取得すれば来れるはずだ」
そう。正式なプレスパスを取得すれば。
「判った。しかし今回は時間がない。次回はそうするよ。ところで前回の取材協力費を振り込みたい。メールで振込先を教えてくれるかい?」
「わかった」

友人はエレツまで来ていてプレスパスを取っていない私に失望したに違いない。
後に知ったが、パスがあれば、日曜から木曜までは通過できると言うのだった。
今回はそこまでの準備がなかった。
私の甘い予測しかなかった。打ちのめされるしかない甘い追憶しかなかった。

お前は何をしに来たのか。お前に何が出来るのか。
いつもと変わらぬ青空が私を再び問い詰めた。

かつてガザの戦う人々に聞いたことがある。
「今、何が必要か?」
「金も武器も要らない。だけど、私たちがここにいることを忘れないでくれ。関心を持ち続けてくれ」

帰国してから一ヶ月以上がたった。ガザの友人は振込先を教えてこない。