一枚の写真がある。写真のキャプションはこうだ。
「ロシアのサンクトペテルブルクで1日、駅前に立つレーニン像に仕掛けられた爆発物が爆発し、尻の部分に穴が開いた」(AP)
写真はややローアングルから後姿のレーニン像を映し出している。右手を明日の方向に突き出し、ポケットにはレーニン帽が覗いている。その銅像はコートを着ている。そのコートの尻の部分に前方からショットガンで撃たれたように穴が外に向かって広がっている。その穴からレーニンの股間と空が見えている。空にはなぜか鳩が飛んでいる。
その穴はまるでレーニンが憤懣の屁をこいてできた穴のようにも思える。
「像は1926年に設置され、ロシアでもよく知られたレーニン像の一つ。爆発によるけが人はなく、警察が犯人を捜している」
私は犯人を知っている。
レーニンの穴はまさに憤怒の屁こき穴だ。
1917年にロシア革命を成功させたレーニンはその7年後に死去しているが、その革命思想はずっと生き延びた。ソビエトと同盟国の各地にレーニン像は建てられ、1991年のソ連崩壊とともに撤去されたり、撤去代がもったいなくてそのままにされたりした。
しかし、スターリンほど批判されていないレーニンは、いまもロシア人の間では人気があるのだろう。モスクワのカルージュスカヤ広場では日本企業の看板を見据える場所に今も銅像は鎮座しているという。
レーニンが睨んでいるのは「HITACHI」とか「CANON」とか。資本主義の象徴。
レーニン像は秘かに嘆いているのかもしれない。
「こんなはずじゃなかっただろう。歴史が僕を問い詰める」
レーニンが目指した共産主義社会にいたる過程の社会主義国家ソ連。それはとっくに崩壊し、いまや世界でもっとも過激な資本主義国家に変貌。原油や天然ガスという資源をめぐって国家と財閥が血を血で洗う戦い。いち早く石油利権に目をつけた若き富豪ホドルコフスキーは、プーチンによってシベリア送りとなり、独立を画策するチェチェンマフィアに対しては軍事侵攻し虐殺も辞さず、それを批判するマスコミには暗殺者をプレゼントする。これらは革命のための戦いにあらず。権力と財力の集中。すなわち高度資本主義の究極の姿である。
資本家に対する労働者の戦い。搾取からの自由と解放。貧しき者がみな等しく平等に富を分配されるプロレタリアートの理想郷は、シベリアの永久凍土の下に埋葬された。
「お前ら、俺の思想が判ってんのか?」
レーニンの穴は嘆きと怒りの噴火口かもしれない。
レーニンはまたこうも思っているに違いない。
「おかしい。消費化資本主義の権化であり物質的繁栄の成功者であるアメリカがなにやら社会主義化している。これってどういうことなんだ?」
国家による大企業への援助、労働者たちへの支援。オバマのアメリカは、個人の力に依存してきた国を国家の統制の元で生存させる社会主義国へ変貌させていると、議会で批判を浴びている。アメリカのレーニン化か。
レーニンの穴は戸惑いの穴でもある。
思えば1989年のベルリンの壁崩壊。1991年のソ連の終焉。これで社会主義の完全敗北は決定的となった。資本主義は暴走した。その結果サブプライム惨禍にたどり着き、世界的恐慌の中で青息吐息という体たらく。今になってマルクス君とかレーニン君とかがもてはやされる。
世界は拝金主義にまみれちまった。
そのために極度の格差社会が生まれちまった。
多くのプレカリアートが明日なき毎日を生きている。
もう一度マルクスやレーニンが唱えた社会へ目を向けよう。
今ある富は失うことなく。できれば再びあの成長が取り戻せるように。
世界のあちこちに不安げに残されたレーニン像はつぶやいているに違いない。
「俺がまだ必要か? ほんとに俺でいいのか?」
レーニンの穴はご都合主義の人間社会にあえて悪臭を放つ。
本物のレーニン像のひとつと対面したことがある。
2002年8月。真夏とはいえ、雨が降れば寒さに震えも来る国後島は古釜布(フルカマップ)。唯一の街である。というよりここ以外にはほとんど人が住んでいない。
その中心の広場にレーニン像は今もあった。
ここで生まれ育った少年少女たちに、この像は何の意味があるのだろうか。
私にとっては2度目の対面だった。はじめは1991年の9月。あれから11年、極東ロシアもすっかり変わったが、レーニン像はまんま残っていた。いたずら書きもなかったように思う。完無視?
「お久しぶりですね。日ロ関係はすっかり変わっちまいましたが、あなたのお姿は変わりませんね。もっとも、島の人であなたの像に頓着する人もいないようですが、この10年何が変わりましたか?」
1991年9月の北方四島。
それは74年にわたる社会主義の実験がまさに終わろうとしている時だった。
国後、択捉、色丹の人々は長き共産党下の不自由の中から解放される喜びよりも、明日自分たちがどうなってしまうのかの不安の中にいた。
「北方四島の帰属は日本、ソ連が不法占拠してるんですよ」と訪れた日本人が言うと、島民のかなりの人が、「そうかもしれない。ひょっとしたらそうかもしれない。そうでもいい。日本に返還されてもいい。でも、ここに住みここで子供を生んで育てた私たちをどうぞ追い出さないで欲しい」と言ったものだ。
思えばそこに住むロシア人の多くが本土を追われ、または任務ということで最果ての島に赴任を命じられた人たちだった。いわばソ連共産党の有無を言わせない命令で住まわされた人たちだった。
皮肉なことに、目の前は北海道。長い島民の知恵は、根室あたりから来る漁師の密猟に目をつむる代わりに手に入れたテレビや冷蔵庫。ソ連の配給もの(第一こんな僻地に電気製品の配給などなかったろうが)よりも、目の前の日本からよっぽどいいものが手に入り、情報もはるかモスクワから電波でやってくる官製のいんちき臭いものでなく、日本発の確かな情報がドラえもんの放送の合間に手に入る。配給のウォッカ片手に大人たちはサントリーやニッカのコマーシャルを毎夜見て来たのだ。
僻地にして、僻地だからか、最も共産主義に遠い社会主義の場所が北方四島だった。
ノルマとしての北方警備。潮風にさび付いた砲塔にまたがり、誰も攻めてきたりしないのに、今日も監視の毎日。
途中どれだけ高級官僚の手によって横流しされるかわからないカニ缶やシャケ缶の製造もまたノルマ。彼らは、腐りきった社会主義官僚制にうんざりしていたはずだ。
だから遠くモスクワでエリツィンが8月クーデターを鎮圧し、ソ連崩壊にダメ押しした時、彼らには愛国心などなかった。自分たちが今後どうやって生きていくのか。圧倒的な物質的優位に立っている日本への帰属。島を返しても、それができれば、ソ連崩壊の混乱よりもましかもしれない。
人間は国家に忠誠なんか尽くさない。人間は家族の安全と安定を第一優先にするのであった。そこには確かにしたたかにして正直な人間の姿があった。
おそらくその時、広場のレーニン像は途方にくれていたであろう。
社会主義の終焉は国家からの逃亡か、と。
あれから11年。
ソ連はロシアへと変貌を遂げ、北方四島海域は資源の宝庫であることが再確認された。カニやシャケ、マスやホタテなどの海産物から海底に眠る天然ガス資源など。資本片手にやってきたマフィアは、日本へのウニ漁出稼ぎ基地として国後を活性化させていた。島を歩いてみると、自家用ガソリンタンクを庭に設置した豪邸があった。役場の人間に聞けば、「アンタッチャブル」と眉をひそめる。日本から不法に輸出されたであろう廃車のスクラップが海岸を覆う。海産物の密漁や密輸。北海道への出稼ぎ最前線。鉄くず処理場。
モスクワのコントロールが効かない最果ての資本主義工場、北方四島。
いまこんなおいしい島はない、とあわてて移住してきた人間たちがいる。
その一方でソ連時代から住み続け、モスクワ共産党の支配下からやっと解放され、自分たちの力でこの土地を少しずつ豊かに変えてきた島民もいる。決して贅沢ではないが、豊かな自然と共生しつましい生活を送りながら、自分たちのかけがえのない場所として島を愛し、決して一時の反映のためでなく永久の住処としてここを愛している人々。
どの島民も思っている。
誰が、日本に返すものか。不当な国家の束縛から解放された島の人々の中には今、資本主義ナショナリズムがはっきりと芽生えていた。
かつてのように日本固有の領土、という言葉に耳を傾けてくれる人は皆無だった。
レーニン像に無常な風が吹く。
歴史よ、お前はただの現在に過ぎない。
しかし、資本主義でも社会主義でも関係なく、そこには遠来の客をもてなしてくれる人もいた。1991年には泊まる所もない私たちを迎え入れてくれた色丹の一家がいた。とっておきのロシア料理を振舞ってくれた。2002年にもそうした家族に歓待を受けた。ウォッカをやりながらお互いの生活について語り合った。皆いい人たちだった。10年たとうが20年たとうが、常にそういう人たちはいる。国家が対立してようが、民族が違っていようが、宗教や主義が違っていようが、遠くから来た人をもてなしてあげようという原初的な人間らしさを失わない人はどこにでもいる。そういう人たちの幸せが何よりだと思う。
歴史は四つの島を国家間の問題としてさ迷わせているが、ここに長く住む人々はこの島の生活をそれなりに愛し、どこに帰属しようとも、子供を育て仕事をし、生きていこうとしていた。すでにここで孫までいる人もいた。
こうした、今ここにいる人たちを無視して四島返還論は成り立たないだろう。
2009年5月12日。ロシアのプーチン首相が来日した。
再び北方四島返還論がにぎやかになっている今日、プーチンが麻生総理と何を話すのか、また北方四島の人たちは何を考えているのか、果たしてそこはどんなところなのか。
メディアという以上それに興味を持たないわけがない。
だから日本テレビのモスクワ支局長は北方四島の択捉島に入った。北方四島は今どうなっているのか、島民は何を考えているのか。報道に携わるものとしてしごく全うな好奇心である。番組内では「北方領土の現状を伝えることは重要と判断した。やむなくロシア当局から取材許可を得た」と説明した。
話題になっている場所、見てみたい。健全なる報道陣としての欲求。
ところがこれに対して、外務省がいちゃもんをつけた。ロシア当局から取材許可を得たということは、日本固有の領土なのに、ロシアの領土だと認めてしまうことじゃないか、というわけだ。
それならビザを取らずに行けばいいのだろうか。もしそんなことをしたら拿捕されて大変な事件になり、その時外務省は「なんと無謀な」と怒りのコメントを発するに違いない。
どうしろというのか。
日本固有の領土ではありますが、行かないでいただきたい。
というのである。相変わらずの建前である。権力のご都合主義である。外務省の保身である。
が、多くのメディアは外務省が怖くてどこも行かない。好奇心の封印を社員に薦めている。
だから日本テレビのフライングがニュースになる。
これに対して当の日本テレビはどう対応したか。
5月25日、細川知正会長兼社長の定例会見。「旧島民の方たちの気持ちを傷つけたことは誠に申し訳ない」と謝罪、「実情がまったく報道されていない。いろいろ問題があるのは承知の上で、報道すべきだと判断した」と語ったという。
日本テレビの社長とすればぎりぎりの謝罪会見だっただろう。
1967年、TBSは『ハノイー田英夫の証言』という北爆下の北ベトナムを取材した番組を放送した。時の自民党はこれを反米的な偏向報道だと咎めた。その時TBS社長今道潤三は田中角栄、橋本登美三郎らに対し、「TBSは報道機関だ。報道機関ならニュースのあるところに人を出すのは当たり前じゃないか」とはねつけた。
テレビ報道に誇りと気概があった頃の話だ。
日本テレビの社長もきっとそう言いたかったに違いない。
そう信じたい。
しかし今何人の報道マンがこの択捉に上陸した支局長のような気概を持っているだろうか。
誰がこの支局長を天晴れと賞賛するだろうか。
常識を疑い、既成の権威に逆らい、権力に歯向かい、建て前を嗤い、ご都合主義に反吐を吐き、『見たい伝えたい』という欲求に素直に従い、それを快楽としてしまう健全なる野次馬精神は、果たして今もメディアの現場に残っているだろうか。
それを失いつつある時代に対してレーニン像は屁を放ったのではないか。
それは例えば『志し』という言葉を失った時代に対する最後っ屁だったのかもしれない。
しからばレーニンの穴の犯人は明快である。
最後の最後まで反権力の志しで、『愛し合ってるか〜い、逆らってるか〜い』と叫び続けたあの人物である。
彼は
シャンペンの瓶に液体火薬をつめ 入り江の奥に導火線をしかけ 最後の指令を こうして俺は待ってる 闇に抱かれ すべてを終らせる
と謳い
感じねえかよ この嫌な感じを
と警告を発した。
体制に呑み込まれ、権力に屈し、権威に寄り添う
そんな嫌な感じに、おさらばするようにあの人は逝った。
あの人、忌野清志郎はレーニンのケツにでっかい穴を開けて逝ってしまった。
1991年。初めての北方四島の旅では船の中で名作『カバーズ』が終始流れていた。
5月。また大切な何かを失った。
了 |