『柿の実、堕ちた』

仕事にでかける時、いつも通る道。その道にある古い民家の大きな柿の木。今年もたわわになった柿の実。
自宅から駅に行く道にはそうした家が数軒あり、眺めるままに秋の深まりを感じていた。
だが、どの家の柿の実も、もうそれを採る家人がいないのか、放置されたままである。
かなり昔、自分が小学生だった頃、近所の柿の実や無花果を、塀をよじ登って盗んだ記憶。
そんな光景はもはやない。近所の果実を喜んで盗む子供たちの姿はとっくに消えた。渋柿を採って干すような家庭もない。そんな余裕はない。
子供はゲームや塾で忙しく、老人たちも、手間隙かけて干し柿にしてみたところ、喜んでもらってくれる子供たちを失ったのかもしれない。おすそ分けする近所付き合いもまた。
世界は食糧難で、経済危機で、資源が枯渇しているらしいが、たわわになった柿の実を振り返る人はいない。遠くの富を夢見た人々は、経済発展と成長神話に疲れ果てて、すぐ近くにあるはずの果実を見失ってしまった。
そうして冬が訪れた頃。誰も採ることのなかった柿の実は、アスファルトの遊歩道の上に無残に、堕ちた。

今年も世界は何かを失った。

「最大の栄誉は、ニクソン大統領の政敵リストに載ったこと」
ポール・ニューマンが83歳で死んだ。『明日に向かって撃て』『スティング』を代表作としてその死を悼む人たちが多かった。しかし、私にとっては『暴力脱獄』こそがポール・ニューマンだった。
冒頭、深夜のパーキングロット。パーキングメーターをひとつずつ切り落としていく男、ビールを飲みながら、またひとつ、またひとつ。そこにパトカーがやってくる。車のライトに浮かび上がる男の顔。ニコっと笑っている。
この笑顔。照れでもなく、喜びでもなく、反逆の諧謔ともいうべき笑顔。ルールを嫌い、体制を嫌い、命令を嫌い、絶対を嫌い、画一化を嫌い、全体化を嫌い、退屈を嫌い、反抗の孤独を、優しい寂しさとともに生きる、冗談とも本気ともつかぬその笑い。
『暴力脱獄』は、ポール・ニューマンという俳優が生涯を通じて表現した、「自由の探求者」の笑顔の原点だ。
「戦争でこれだけ勲功を上げているのに、何だって公共物破損罪なんかで捕まったんだ?」と刑務所所長に問われ、
「ちょっと、退屈だったから」と答える、異端児。
既存の価値観に当てはまらない男、アメリカの正義とルールを無視する男はとことん排除される。1967年。アメリカがベトナム戦争の泥沼でおぼれていた頃、ポール・ニューマンは『異質であることの権利』を静かに奏でた。
その頃からアメリカの正義と繁栄には陰りが見えていたのだ。

2008年、アメリカの陰りは実体を伴って世界を撃った。三大自動車メーカーが悲鳴を上げた。日本ではトヨタも悲鳴を上げている。
しかし、人はいっぺんに2台の車を運転することはできない。如何に大量に生産しようとも、車を買える人の総数は予測できたのではないか。やがてこの日が来ることは予測できたのではないか。なぜ、とめどなく消費活動が続くと思ったのだろうか。
世界の隅では、アメリカ人一人当たりの年収で1000人以上が暮らせる国があり、その国の人々は、先進国に搾取され、低賃金で奉仕させられていて、とても車なんか買えるはずもないのに、なぜ世界はせっせと車を作り続けるのか。その一方で、化石燃料の有限性を知り、CO2排出を嘆いて見せるくせに。
人はいっぺんに2足の靴を履くことはできないのに、世界は、一人の人間に対して数百の靴を供給しているに違いない。やがてそれが限度を迎えることを、どんなに偉い経済学者も予測できなかったというのだろうか。
有限な土地や建物が永遠に値上がりし続けることなどあろうはずがないじゃないか。どうしてそれに誰も気がつこうとしなかったのか。
暴走した消費経済。消費財を作り続けなくては人間は生きられない。新しい消費者を求めるための侵略、そんな愚行が世界を覆う。レアメタルを求める大国のために、あまり賢いとはいえないアフリカの指導者たちが内戦を引き起こしている。
こんなにもマネー経済の無様な失敗を目の当たりにしたのに、まだ成長をもう一度、という人たちがいる。
まだそんなことを信じているのかよ。
「金があるんだ。誰が幸せになんかなりたいものか」

世界は何かを失った。

メディアは長くペンを武器として戦ってきた。映像メディアはカメラを武器として戦ってきた。そして今年、それに靴が加わった。
ブッシュに投げられた靴は世界の無力なメディアに向けられた、イラク市民からのプレゼントだろう。私たちは、サダムのイラクが崩壊するさまを伝え、アメリカがイラクを蹂躙する姿を伝えたかもしれない。しかし、サダムの圧制から、アメリカの蹂躙から「自由になろうとする」イラク人の姿を誰が伝えたか。
占領下にありながらの地位協定。もしアメリカがイラク国内から他国を攻撃したら、すぐイラクから出て行ってもらうぞ。
日本国内から何度も他国攻撃に出て行ったアメリカ。それを許し続ける日本。イラクよりも先進国と胸を張れるか。
キリスト教徒を決してテロリストとは呼ばず、イスラム教徒ならテロリストと同義のように伝えてきた世界に対して靴は投げられた。
北朝鮮の拉致は国家テロだが、グアンタナモへの拉致と拷問は国家テロとは呼ばない。
北朝鮮やイランが核兵器を持つことは決して許さないが、イスラエルへの核査察を訴える世界はない。
アメリカという大国がこれほど疲弊し、その信を失っているにもかかわらず、このダブルスタンダードには誰も意義申し立てをしない。
アメリカから自由になる日はいつ来るのだろうか。

アメリカから自由になることが、自衛隊の軍隊としての自立だと思う人々がいる。
田母神論文の支持者は意外に多いのだと思う。
いやぁな風が少しずつ吹いている。
戦争できない軍隊の矛盾、兵士の不満。もし戦前であれば、拉致国家北朝鮮へすぐさま出兵していたであろうという国民感情。あんな国はぶっ叩いてしまえと煽っておいて、それでも不戦ですよ、と曖昧な論調。田母神論文はそんな曖昧な日本の心をくすぐる。
調子に乗ったこの男は、戦中に核兵器があればやり返したであろうと、のたまった。
「言論の自由」の問題ではないだろう。「表現の自由」でもないだろう。
確かにこんなクソのような論文が発表されてしまう「自由」への歯がゆさはある。
しかし、問題は、その「語り口」を「はっきり言い切って気持ちがいい」と感じてしまう時代の感性だ。時代の気分に文民統制は効かない。
いやぁな感じがする。
思考停止のほうが、面倒臭くなくていい時代。
何かに委ねたい時代。
大きな権力がないことを知りつつも、誰かに人生の進路を決めてもらいたいような、「生き方教えて」の時代。

大不況。派遣、非正規雇用者の大量解雇。新自由主義資本主義に無批判に追従してきたのは経営者側だけか。労組はどうだ。自由を求めたフリーターはどうだ。終身雇用という束縛から自由になろうとした生き方はどうだ。携帯電話とネットから自由になれない派遣労働者に困窮時に助けてくれる友人はいないのか。それをいつ失ったのか。
今、切実な生活不安に陥っている多くの勤労者が、雇用してくれ、雇用してくれと叫んでいる。フリーターが束縛を求めている。
危険はないか。それでいいのか。
救いの手は近所にないのか。隣人はどうした。仲間はどうした。
もし、それが悪政のせいならば、政権を脅かす行動はなぜ生まれないのか。
ギリシャである必要はないかもしれない。
タイである必要はないのかもしれない。
しかし、イラクでは靴が飛んだ、のだ。
100年に一度の危機ならば、100年に一度のやり方はないのか。
既成の方法で、既成の思考で、がんじがらめの閉塞間の中で、嘆きだけが空を舞う。
私たちはまだ、自由になりきれていないのか。

自由になりきれていないことを嘆くよりも、アメリカ発の不景気を嘆くよりも、私たちに必要なものがあるような気がする。
それは、たとえば、隣人。ともに戦える隣人。
すぐ隣の人。

世界は、ひょっとして隣人を失った?
私たちも隣人と共存するすべを見失った?

飯島愛という人が死んだ。みんな彼女を愛していた。
それなのに誰一人彼女のよき隣人ではありえなかった。

死因は?
孤独。

21世紀にいたる私たちの発展のたどり着いた場所は、孤独。
それならば、もっと孤独の練習をしておくべきだったのでは。