『長い沈黙』

その記事は新聞の社会面にひっそりと載っていた。
「被告人『留置17号』を執行猶予に処す」
今年6月東京都内。無灯火の自転車に乗って職務質問を受けた男は、質問してきた警察官を殴り公務執行妨害で逮捕された。
それから4ヶ月。10月18日。東京地裁八王子支部は男に懲役1年6ヶ月執行猶予3年の判決を言い渡した。起訴状の記載は「氏名不詳(警視庁東大和警察署留置17号)」。
男は取調べ中から公判中も一切喋ることがなかった。氏名も住所も年齢も、イエスもノーも。
だから男の名称は『留置17号』。完全黙秘の男である。
これには警察も検察も弁護士も裁判長も困ったことだろうと、容易に想像がつく。
そしてそれは同時にかなり興味深いことでもある。

人が人と接していて一言も喋らないことが可能なのか。
人は相手が一言も話さない時どうなるのか。
そして、男はなぜ一言も喋らなかったのか。

「名前は?」
「‥‥」
「言えないのか?」
「‥‥」
「名前ぐらいあるだろ? 言いたくないのか?」
「‥‥」
「言いたくないのは捕まったことが人に知られるのが嫌だからなのか?」
「‥‥」
「おい、何とか言ったらどうだ!このまま黙っていたら留置が長くなるだけだぞ」
「‥‥」
「あのなお前、俺をおちょくってんのか?」
「‥‥」
「腹減ったか?」
「‥‥」
「腹減ったかどうだかぐらい言えるだろう?それも言えないなんてお前なに考えてんだ?」
「‥‥」
「お前、俺を怒らそうとしてるだろ? 抵抗してんのか? 無灯火運転ぐらいでしょっ引いたことに怒ってんのか? 巡査の態度が悪かったのか? だから殴りかかったのか?」
「‥‥」
「あのな、わかったよ。悪かったよ。いきなり犯罪者扱いされてムカッと来たんだろ?だからさ、名前と年齢ぐらい言えよ、な」
「‥‥」
「強情な奴だな。なに見てんだよお前。俺がそんなに嫌いか?オマワリがそんなに嫌いなのかよ。えっ、何とか言えよ貴様!!」
「‥‥」

「ええ、私はね、当番弁護士。弁護士ってわかるでしょ? あなたの味方。早くここ出れるようにね、私があなたを助けますから、だからね、私には名前ぐらい教えてくださいよ。あなたにも親や兄弟がいるでしょ。心配してますよ今頃。私のほうから連絡してあげますから」
「‥‥」
「ほら捕まったのが住宅街でしょ。あの辺に住んでるの?」
「‥‥」
「見たところ30歳は過ぎてますよね。知り合いの一人ぐらいいるでしょ?」
「‥‥」
「たった一人で生きてきたわけじゃないですよね。これまで一言も喋らないで生きてきたわけじゃないでしょ?そんなこと人間は絶対にできないもんね。聾唖者でない限りはね。聾唖の人だって、手話で話したりしてるんですからね。ほら、ウンでもスンでもいいですから。そうしないと少しも進みませんよ」
「‥‥」
「あのね。あなた私を馬鹿にしてますか? その理由は何なの? これじゃ裁判だってできないのよ。たかが無灯火運転と公務執行妨害でしょ。罰金刑にだってできるのよ。あなた刑務所入りたいの? ダメダメ、刑務所入るんだって、罪を認めなくちゃならないのよ。確かにやりましたと、言わなければならないのよ。ね、何とか言ってみてくださいよ」
「‥‥」
「あなた何が不満なの? 仕舞いには私だって怒りますよ。あなたね、社会ってのはコミュニケーションで成り立っているわけよ。自分の意思や気持ち、それを他人に伝えることで私達の社会は成り立ってんのよ。赤ん坊だってバブバブいいながら母親に意思を伝えるの。判ってんでしょ。あなたこの社会に恨みでもあるわけ? その態度って社会に対する抵抗なの?」
「‥‥」
「また来ますけどね。次回は喋ってくださいよ。強情張ってないで。そんな態度がいつまで通用すると思ってるですか?警察はやさしくないですよ。知りませんよ私は」
「‥‥」

「はじめましてこれ私の名刺、読んでみてくれます?」
「‥‥」
「読みたくない? 声がでない? そんなことないですよね。まあいいです。私はそこにあるように心理学者という職業です。今日はね、あなたを理解しようとやってきました。いいんですよ、喋らなくても。喋りたくないんでしょ、あなた」
「‥‥」
「分かりますね私は。実はあなたのような若い人が最近多いんですよ。今あなたのことを若い人って言ったのはね、あなたがおそらく30歳を過ぎているのにね、まだひとつも大人になったという実感がないから、その意味で若いと言ったんです。そうでしょ? そしてあなたは人生に絶望も希望もそのどちらも感じてない。でしょ? いわば空虚そのものだ。ですよね?」
「‥‥」
「返事もしたくない。うなずきもしなければ、首を振ることもしない。あなた、かたくなに反応しないように努力している? そうじゃないですよね。あなたは、こんなこともうどうでもいいんだ。他者なんてどうでもいいんでしょ? でも今あなたはあなた自身と会話しているはずだ。自分は何をしているんだろう? なぜ人の言葉に反応できないんだろう? そうじゃないですか?」
「‥‥」
「もう少しですね。いまあなたは私の言葉に反応しようとした。あれ、この人は警察でも弁護士でもないぞ、俺を罪という名で裁こうとしたり、またはその逆だったりする人じゃないぞ。今俺の気持ちにいちばん近い人かもしれないぞ、そう思っているでしょ? そうなんですよ。私はあなたの気持ちがよくわかる。あなたはコミュニケーションの不毛に、無自覚にも気づいてしまった存在なんです。人は話し合っても決して理解することはできない。そうですよね。だったら時間を使って話すなんて事は無意味だ。時間の無駄だ。そう思ってるでしょ?」
「‥‥」
「それでいいんです。ですからね、ちょっと無意味なことを話しませんか? 意味のない事をね。たとえばどうですか? 今日の空の雲はどんな形ですかね?」
「‥‥」
「だめですか? 今私と無意味な会話のスタートを切らないと、その、ちょっと言いにくいですが、あなた苦しみますよ。それは実存的な苦悩といったものかもしれないし、はっきり言えば気が狂うかもしれない。それでもいいんですか? 私だけですよ、あなたを理解してるのは」
「‥‥」
「だめだねあんたは。ここまで言ってもダメなんだ。そんなに心を閉ざしてるとね、きっと罰が当たるからね、間違いないよ。後で後悔しても私は知らないからね!」
「‥‥」

かくて留置場はカフカの世界をさまよったに違いない。

何を言っても一切答えない男。
人はそんな人間と向き合った時どうなるのだろう。
『留置17号』と接触した人たちは何を思ったのだろう。
一言も喋らない4ヶ月間。『留置17号』は果たして苦しくなかったのだろうか。
それにさえ彼は答えてくれない。

一切の会話を拒否して沈黙する者は、語りかける者に、時として内省を促す。
なぜこいつは私と話したがらないのか。私が嫌いなのか。私のどこが嫌いなのか。
私の問いかけが彼の何を刺激して拒否反応を生み出すのか?
彼には私と話したくない理由があるはずだ。
私の強引な論法が気に入らないのか。
私の存在自体が彼には疎ましいものなのか。
私の言葉はそれほど相手を傷つけているものなのか。
それは私に対する抵抗なのか、侮蔑なのか、それとも同情なのか、軽蔑なのか、それとも絶対的服従の暗い自己表示なのか、それとも彼の逃避なのか。

沈黙は一切の答えを拒否する。
私の問いかけが正しいものなのかそうでないのか、沈黙はそれにけっして答えてはくれない。
沈黙を前に私たちはただ立ち竦むしかない。
答えは言葉を発した私たち自身が見つけなければならない。

かくて沈黙の前に私たちの理性は崩壊する。
私たちは、少なくとも私たちが発する言葉や問いかけに答えてくれる社会や人々を無邪気に信じて生きている。
しかし、それはどこまで本当か。
『留置17号』は私たちのそうした無邪気な信奉を打ち砕いた。

私たちの生きる世界には、間違いなく沈黙を最大の抵抗としている人々がいる。
私たちはそういう人々を無意識のうちに量産してはいないだろうか。
一方的な予断で、有無を言わせぬ思い込みで、反論を許さぬ集団的な圧力で、沈黙でしか対応できない人々を作り出してはいないだろうか。
知らずうちに私たちは沈黙を強制してはいないだろうか。

そして問題は、時として私自身が沈黙する側に回りたいという負の欲求にさいなまれることだ。
執行猶予がついた『留置17号』はあれから何か喋ったのだろうか。
それを知りたい。

妻が時々『留置17号』になるのも問題だ。