「世界から見たパレスチナ人とは何か?それは単なる政治ニュースだ。だが、我々は、単にニュースとして省略されてしまうことを拒絶したい。我々だって人間で、苦しみもすれば夢も見る。そして何よりも普通の生活を望んでいるのだから」
パレスチナの舞台演出家ジョージ・イブラヒムはこう言った。
2002年の夏、私はその年4回目のパレスチナ取材をいつものように一人で行っていた。
4月にはジェニンという場所でイスラエル軍による虐殺があり、パレスチナ政府の建物は周囲を戦車で取り囲まれていた。
キリスト生誕の地ベツレヘムの街には外出禁止令が発令され、役に立ちそうもない防弾チョッキを着込んだ私は人影のない街をうろついていた。
シャッターを閉めた商店。窓を閉め切った民家。誰一人いない乾ききった道路に私はたたずんでいた。
時折、路地に隠れるように配備された戦車から自動小銃が発射された。
誰がここを制しているのか、それを思い知らせるように。
その銃弾は日本から来た中年TV屋にも容赦なく降りかかった。
何もかもが異常だった。それが日常であることが異常だった。
ガザでも銃撃に会った。ユダヤ人入植地と境をなすラファの街。
前夜に戦車とブルドーザーがいきなり民家数件を襲った。やわらかいコンクリートの家は瓦礫の山になっていた。恐怖で泣き止まない幼児を抱え、母親が途方にくれていた。
子供たちが瓦礫の山に登り、同行した私にイスラエル軍基地を指差し教えてくれた。
すると突然、数発の銃弾が私達のいた瓦礫の上で跳ねた。標的は私と子供たちだった。
こうした日常がもう何年も続いているのだった。
その現実を私は飯の種にしていた。銃撃の恐怖より、それを撮影できた興奮の中に私はいた。私の病だ。
ガザの難民キャンプに友人がいた。久しぶりに訪問すると、彼ザヘルは近々迎える花嫁のために立てた新居に案内してくれた。そこの床に茣蓙とマットを敷き私は寝た。
翌朝、モスクから流れるコーランの音で眼が覚めた。金曜日はイスラム教徒の休日だ。
ザヘルがパンを片手にやってきた。
久しぶりの訪問にガザの困窮、イスラエル軍の侵攻の苛烈さなどを語ってくれるのかと思っていたら、ザヘルは茣蓙を丸めると海岸へと歩き出した。
ガザは地中海に面している。この海はベニスにもマルセーユにもカンヌにも繋がっている。
イスラエル軍の戦車の走行で穴ぼこだらけになった道を越えると、青い空と灼熱の太陽が降り注ぐビーチがあった。
金曜日の輝ける午前。ビーチには夥しい数の家族がいた。
子供たちは波と戯れ、親父たちは持参したバーべキューセットに炭を起こしている。
母親は赤ん坊を抱いて波打ち際に座り、行水させている。
チリンチリンとベルを鳴らしアイスクリーム屋が陽炎の中を通り過ぎる。
子供たちが走る。ビーチボールが飛ぶ。笑い声が聞こえる。
焼いたチキンをもって「日本人よこれを食え」と言う親切な若者もいる。
ザヘルはサングラスの中から笑っている。
「ゴトウよ、これが我々の普通の生活だ。夏の休日の生活だ。我々は普通の生活をしているんだ。それを見てくれ」
そう言っているようだった。
私はその普通の生活を奪うものについて考えていた。
ジャーナリスト気取りで「普通を生活を奪うもの」を憎んで見せていた。
この経験から5年。
今年取材である一家を訪ねる機会があった。
そこには古舘伊知郎もいた。一家は彼の訪問を待っていた。夫婦と子供一人。
居間のテーブルの上には色紙とサインペンがあった。有名人が来てくれた。サインをもらいたい。普通の感覚だ。おいとまする時、家族は記念に写真を撮りたいと言った。古舘は気さくに応じた。4人はにこやかにカメラに収まった。これも普通の感覚だ。
一家は普通の人々だった。
だが、本来なら家族は4人家族のはずだった。
欠けた一人の写真が居間と仏壇のある部屋に飾ってあった。11歳で殺された土師淳君。
殺害されてから10年。
土師家の10年は普通の生活を取り戻すための10年だった。その生活は決して戻らないが、土師家の人々はそれをもっとも大切なものとして訴えかけていた。
淳君の父親、土師守さんはこの10年間、テレビの取材に顔を出して答えるのを避けてきた。それが今回さまざまな思いから応じることにしたという。
犯罪被害者支援法の整備、今は自由の身となりどこかで生きている元少年Aへの訴え、家族を苦しめたマスコミへの思いなど、ようやく10年たって土師さんは語ることができるようになったのかもしれない。
そうした思いを聞きながら、私が感じていたのは普通の人々が奪われた普通の生活の喪失感の深さだった。
土師さんが奪われたものは息子さんだけではなかった。それは被害者であることがもたらす家族の崩壊にも似た苦しみだった。それまであった自然な会話や笑い、少しでも思い出さないために気を使いながら送る日常。それでも執拗に追いかけてくるマスコミや同情や憐れみの声。土師一家に対する善意もまた普通の生活を壊すものであったに違いない。
インタビューの中で土師さんは控えめながら「うちはごくごく普通の家族なんです」と力説していたような気がした。その普通の家族の普通の生活が奪われた苦しみを判って欲しい。
記念写真に納まった家族3人の普通の表情が痛切にそれを物語っていた。
その普通の家族が奪われた普通の生活、二度と戻ってこないその絶望的な喪失感に私達はどれほどの想像力が発揮できるか。
取材の後に『心にナイフを忍ばせて』という本を読んだ。
1969年に起こった私立サレジオ学園の同級生殺害事件。
一人の生徒が同級生に滅多刺しにされ殺された。
加害少年は医療少年院に入れられ、その後社会復帰している。
しかし、被害者家族はいつまでもこの事件から自由になる事はできなかった。
失われた普通の生活は決して元には戻らなかった。
この被害者一家も4人家族だった。父親は苦しみの中から洗礼を受ける。「人を恨みたくない。ただ平和でいたいだけだ」
被害者には妹がいた。彼女は崩壊する家族の中で生きるためにリストカット常習者になる。それを知った母親が「こんなに大事に育てたのに」という嘆きに「その大事さがきついんだよ」と言い返す。それほどまでに家族は引き裂かれてしまっていた。
その母親も精神を病む。
時は遺族を決して癒さないのだ。
やがて結婚した妹は訪れた平安の中でふとこう思う。
普通の生活。「普通」とはこれほどいいものか、これほど安らぐものか。
それは「普通の生活」を決して取り戻せない者が発することのできる叫びにも似ている。
私たちは「普通の生活」を大事にしているだろうか。それが失われることへの想像力を持っているだろうか。
「普通の生活」を脅かすものに毅然として戦う意志を持っているだろうか。
私たちの「普通の生活」を脅かすものは果たして犯罪だけだろうか。
毎日の「普通の生活」に辟易しながら、私は思った。
失った想像力よどこへ行った?
お前にいったい何ができる?
了 |