『私をデモに連れてって』

そのデモはちょっと変わったデモだった。
郵政民営化に反対する特定郵便局の局長婦人たちが全国から集まって、国会に向けてのデモ行進。「ユーチョ!!」「カンポ!!」「ユーチョ!!」「カンポ!!」と威勢のいい掛け声が響き渡ったかどうかはともかく、既得権を守ろうと各地の名士の奥様たちが楽しそうにデモ行進をしていた。
郵貯・簡保で集まった莫大な資金が財政投融資という形で国に流れ、天下り機関の特殊法人に注ぎ込まれ、借金大国ニッポンの取り返しのつかない悪循環を作り上げている。その構造を元から絶たなきゃダメというのが「郵政民営化」の趣旨だと思うが、どっこい特定郵便局は「それは許さんぞ」「私達の生活どうしてくれる」と大抵抗。
この奥様デモに賛同するか反対するか?

それは多種多様な意見があるとして、私達はこのデモそのものを否定してはいけないと思う。
なぜならデモは、民主主義国家が基本的人権として認めた「集会の自由」「言論の自由」に保障されるものだからだ。

話は突然フランスの文学教授ロベール・フォリソンに飛ぶ。彼は、第二次大戦中のナチスのガス室を否定したかどで免職となった。ユダヤ人を虐殺したガス室はなかったとのたまってしまったらしい。ある意味とんでもない奴だ。それを引用した「マルコポーロ」という雑誌はユダヤロビーの圧力で廃刊になってしまったと記憶する。
ノーム・チョムスキー(ユダヤ人です)は、このフォリソンに対する「表現の自由擁護の請願書」に署名を頼まれ応じた。そして彼は「ガス室否定論者」のレッテルを貼られ「反ユダヤ主義者のゲス野郎」と罵られることになった。
しかしチョムスキーは恥じることなく言った。
「小生、貴兄の書き物はなはだしく不愉快に存じ候。されど、貴兄がそれを発表する権利を行使しうるよう、全力をあげて尽力を惜しまぬ所存」
つまり、あんたの言うことにはちっとも賛同しないけれど、あんたがあんたの思想を表現する自由は全力を上げて擁護する、と言ったのだった。

先日『ベルリン、僕らの革命』という映画を見た。現代の革命を志す若者たちがひょんなことから大金持ちを誘拐してしまう。大金持ちは1960年代に革命を夢見た世代だった。
彼は囚われの身でありながら若者たちに言うのだった。
「君たちは間違っている。でも君たちの理想主義には敬意を払う」

君たちとは意見が違う。だが、君たちがそれを集会で、デモで、表現することには敬意を払う。なぜなら私達もまた「表現の自由」を自分たちの権利として守り、行使したいからだ。

さて、奥様たちのデモよりも数段刺激的で、関心を持って眺めたデモがあった。
そう、4月に中国各地で起こった「反日デモ」である。
歴史認識問題か、戦後処理問題か、靖国か、教科書問題か、国連安保理問題か、尖閣や東シナ海などの領土問題か、日本に対する憤懣が一挙に爆発し、「デモへ、デモへ」の呼びかけはネットを通じ拡大し、それは成都、北京、上海、広州、蘇州、天津、瀋陽などへ3週に渡って燎原を燃やす火のごとく広がった。
上海では「ピクニック気分の家族連れも含め総勢八万人」に膨れ上がり、その一部は暴徒化しペットボトルや石、トマト、汚物までを日本総領事館に投げつけた。矛先を中国人が経営する日本レストランに向けた者もいた。
私は思った。
「君たちがやっている事は一部間違っている。しかし君たちの集会の自由とデモの自由は支持する」
だってそうだろう。あの中国で、言論の自由のない中国で、今民衆が自発的に集会の自由、デモの自由を謳歌しているのだ。「ピクニック気分」でもいいじゃないか。デモは民主主義の証だ。デモに興奮はつき物だ。ペットボトル、トマトなんてのは愛嬌だ。いただけないのは、路上の石を引っぺがし、罪もない日本食レストランを襲ったことぐらいじゃないかな。(しかし正直に言えば、1968年パリの5月革命で学生たちが敷石をはがし投げまくっていたのを、私は秘かに支持していたのだが)

日本大使館や日本領事館に対してはどうだったかって? ひとまず意見を保留します。(私は海外の日本大使館がどれだけ邦人に奉仕しているかはなはだ疑問に思っている。死して1年、橋田信介の残された死体を引取りにも行かず、その真相を探ろうともしないイラクの日本大使館に対しては憎悪まで持っている。他の大使館も日ごとゴルフとパーティーにあけくれ、税金をたっぷりと使い王様暮らしをしている国賊の巣窟だと認識している。そうじゃない所や大使もいると思うが、トマトをぶつけられるぐらいろくでもない所であろう事は想像がつく。)
まあしかし、罪もない人を暴力で傷つけるのは基本的によくないとは思っている。

「反日」? それもいいだろう。世界中の国々の人、誰しもが親日だなんて思っちゃいない。聞こうじゃないの。反日の言い分を。
ちょっと言いがかりじゃないの? と思うこともあるけれど、自分の思っていることを言える自由、それを謳歌しようとしていることは評価したい。
そう。私は中国のデモを評価したいのである。

しかし、中国の民衆デモを民主主義の夜明けと評価できない人が多かった。
暴徒化したデモ隊を「怪しからん輩」として誹謗、断罪する声が多かった。まるで中国人はデモをしてはいけないかのようだった。
反日行動に逆上し、俄かナショナリストになる人が多かった。大使館が襲われたことをまるで自分の家が襲われたごとく逆上する論調もあった。「日本に対する宣戦布告だ」「やっつけちまえ」いつから在外大使館を自分の分身のように思う愛国心が目覚めたのだろうか。

ある人が言っている。
「ナショナリズムが強化されるときは、必ず『他者によってわれわれが侮辱されている』『他者によってわれわれが不当な取扱いを受けている』という『負の感情』による連帯が生じる」(外務省のラスプーチンと呼ばれた佐藤優さんの『民族の罠』世界7月号より)
中国人がわれわれを侮辱している。中国人が暴徒と化して日本人を襲おうとしている。
許さん。やっつけてしまえ。とまで興奮した声が聞こえてきそうだった。
何をそんなにナショナリストぶっているのだろうか。そんなに日本が立派かね。日本大使館にトマトをぶつけられて怒り心頭になる憂国の士、そんな憂国の思いがあるのなら国会にトマトでもぶつけてみたらいいのに。おっと、筆が滑ってしまった。
が、特定郵便局の奥様たちのように、わが国会に対してデモでもしたらどうなのだろう。だらしないですよ、わが国の国会。酒気帯び議員たちが出来レースやってる。
要は、中国人に侮辱されたと思うことで、己の満たされない憤懣をたいしてありもしないナショナリズムに昇華したいだけなのではないだろうか。これってとっても危険。
もし日本が民主国家として立派ならば、ここはひとつ「いやあ、中国もやっとデモの自由が認められましたか、民主国家に一歩近づきましたね、それじゃとことん民衆レベルで話し合いましょうや」というのが大人の態度だと思うのだが、そうはならなかった。
中国政府の愛国教育が反日感情を助長し、民衆を暴徒にしているという批判。
しかしよく考えてみよう。「愛国教育」をしなくちゃ行けない国は、国民に愛国心がないからじゃないのか。愛国心なんかくそ食らえと思っている国民が多いから、政府は必死に愛国教育を施したいのではないか。日本もまたそんな空気に満ちている。
小熊英二という人が言い当てている。
「冷戦期と高度成長期に形成された『日本という国のあり方』が限界にきた、という意識が一般に広く共有され、新しいナショナル・アイデンティティーを築かなければならないという気分が高まっている」(『改憲という自分探し』論座6月号より)
ナショナル・アイデンティティーを築くために、中国に侮辱されたことをバネにするって、なんだか子供じみている。そうしたナショナリズムは決まって感情的な排外主義的ナショナリズムに転化する。中国のデモはけしからん、ということになる。

私達が中国政府に対して怒らなくてはならないのは、「愛国教育」をして、「反日感情」を植え込み「反日デモ」を煽ったことではない。
5月4日、輝かしい中国民主化の記念日、5・4運動の日にデモを弾圧したこと。
6月4日、輝かしい天安門事件の記念日に一切のデモを許可しなかったこと。
これである。
これによって、中国の4月の民衆デモは「官製デモ」であったことがばれてしまった。
これこそ問題なのではないだろうか。民主主義の芽を摘み取った中国政府の罪は「デモ」の自由を奪ったことにあるのではないか。笑顔で自分の意思を表現する民衆から自由を奪ったことではないか。
ついでに言うと、マイクロソフト社も共犯だ。中国のプログでは「自由」とか「民主主義」を打つと「変換できません」となってしまうらしい。ITによる言論弾圧。自由の国アメリカが反民主主義を輸出している。

デモとは、物言わぬ大衆が、一人では力が出せない大衆が、集まり(集会をもち)、巨大な権力に向かって物申す(表現の自由を行使する)行動である。
中国は多くの農民のこの意志を弾圧している。それこそ批判されるべきだ。中国政府の仕掛けたデモを批判するあまり、デモそのものを否定してしまうことは、民主主義国家の住人としては恥ずかしい。

これまたついでに言うと、北朝鮮。平壌で行われたW杯予選、観客が審判の判定に不満を漏らし、会場が騒然となったあの光景。あれは、北朝鮮の民衆が一丸となって「ノン」を叫んだきわめて珍しい光景だった。私は微笑ましくそれを見た。あの独裁国家で、官憲が何より恐ろしい弾圧国家で、民衆が椅子を投げ、警官に殴りかかっているではないか。これは自由なデモの萌芽ではないか。民衆が集団となって物申す姿ではないか。がんばれ北の同胞よ!!
だがそれを、北朝鮮の観客は危険だというジャッジで無観客試合にしてしまったFIFAの決定。サッカーの試合で客が興奮して物を投げるのは世界のあちこちで見られる現象だ。イギリスでもブラジルでもイランでも、ビール瓶は飛び、発炎筒は舞い、時には人も死ぬ。北朝鮮ではこれまでそれがなかった。サッカーとはいえほとんど初めて民衆が、集団で意志行動をした。これぞ民主主義の夜明け、と私は思ったのだが、それをFIFAと将軍様はかなり恐れたようだ。民衆がデモという権利に目覚めるのを恐れたのだった。よって第3国による無観客試合。FIFAは独裁国家を擁護したのだった。
おそらく将軍様は本気で危機を感じたと思う。朝鮮民主主義人民共和国に民主主義のシンボル「デモの自由」はあってはならないものなのだから。

とにかく、俄かナショナリストたちは、デモを恐れ、罵った。今回の多くの中国批判が「デモ批判」となり、デモそのものがいけないもののように論じられた。
なぜか。
それは批判するものたちにデモに参加した経験がないからではないか、と私は思い至った。
そう、デモに行ったことないのね、きみたち、というわけだ。
思えば日本のデモの頂点は1970年ごろまでだったかもしれない。
それに参加したことのある年代は今50代半ばを過ぎようとしているだろう。
今回中国に対して吠えまくっている人たちは、ひょっとして「あの素晴らしい日々」を知らないのではないか。こっそりと告白するが私はちょっとかじった世代。
デモの楽しさ、面白さ、すがすがしさ、開放感、連帯感を経験した事のない「デモアレルギー」の人々が、ナショナリズムの衣装をまとって中国や韓国のデモを口汚く罵っているのではないか。
そう、デモは楽しいのである。普段は車がでかい面をして走っている道を大手を振って歩けるのである。普段はスクラムを組む機会のない他人と、ひと時の連帯感を共有し、税金泥棒に罵声を浴びせることが出来るのだ。
そう、デモは面白いのだ。時には機動隊の放水を浴びる事はあっても、見知らぬ女性とずぶぬれになりながら、互いを思いやりながら非日常の空間を共有できるのだ。私の友人たちの中にはそうして恋人を作った者も多い。嫉妬に狂った機動隊に殴られた者も多いが。
そしてデモは歌を生む。『アカシアの雨に打たれて』とか『フランシーヌの場合は』とか、知ってますか?
そう、デモは物言わぬ大衆の輝かしい権利なのだ。デモは閉塞した日常からの解放行動なのだ。実は私はデモのカンパで8ミリフィルムを買ったのだ。デモは時々貧しき若者に恵みを与えてくれるものでもあった。

そのデモがすっかり無くなってしまったのが今の日本だ。実は「イラク戦争反対」とかのデモはしっかりと行われていたのだが、多くの日本人はデモから遠く離れてしまった。
連帯を求める者は隠微にネットで知り合って集団自殺なんかするようになってしまった。

韓国はデモで血を流し、市民の力で民主主義を勝ち取った。
アメリカはデモでベトナム戦争を終わらせた。
ユーゴではデモで大統領を辞任に追い込んだ。
今も、パレスチナで、イラクで、キルギスやウズベキスタンで、圧政や弾圧に抗議してデモは起こっている。
それを遠くで眺めながら、鬱積した不満の捌け口を見つけられない者が、ナショナリストとなって中国を誹謗している。
素直になって言えばいいじゃないか。民主主義国家なんだろ?
「私をデモに連れてって」

民主主義、民主主義と書いてしまいましたが、私は次のチャーチルの言葉を支持しています。
「デモクラシーは最悪の政治形態だ。これまで試されてきたどんな政治形態よりもましだが」