その橋は無残にも崩れ落ち、ようやく補修した仮の木製の板橋で人々は行き来していた。
スターリ・モスト=古い橋。ユーゴを流れるネレトバ川にかかるアーチ型の橋は、オスマントルコ時代に作られたもので、東側のオリエンタルな町と西側の近代的な街を結んでいた。宗教、民族の違う人々がこの橋を行き交い、かつては平和に暮らしていた。
アーチ型の橋の上から眼下のネレトバ川にダイビングする祭りは、同じユーゴ人の男として誇りを賭けた伝統の儀式だった。そこにはクロアチア人、セルビア人、ムスルム人の区別はなかった。勇猛果敢なユーゴ人の誇りだけがあった。
その町モスタルの意味は「橋の番人」だった。モスタルは民族共存の象徴だった。
その橋は1993年、クロアチア人勢力のロケット砲によって崩れ去った。
1991年に始まったクロアチア戦争は、それまで共存していた六つ共和国、ひとつの国家ユーゴスラビアを解体に導いた。それはそれまで隣同士で暮らしていた人々が互いに敵対し、血で血を洗う凄惨な内戦となった。
クロアチア戦争はボスニア・ヘルツェゴビナに飛び火し、モスタルは最もひどい内戦地のひとつとなった。
初めは武装したクロアチア人に対して、セルビア人と旧ユーゴ連邦軍が本格的な戦闘に入った。モスタルのムスリム人は占領軍となったセルビア勢力に対し、クロアチア人と協力して戦った。やがてユーゴ軍が撤退すると、モスタルはクロアチア人に占拠され、これに対してセルビア人とムスリム人(ボスニアのクロアチア化に抵抗するボスニア軍として)が共同して戦った。昨日の味方に対して昨日の敵と共同して戦う、これがボスニア内戦だった。
橋はそのさなかに落とされた。
それから約10年。モスタルの街は、西側東側共に、内戦の傷跡をなまなましく残したまま荒廃している。内戦を経てボスニア・ヘルツェゴビナは独立したが、ボスニア連邦とセルビア人共和国に分裂した。モスタルの町に住むクロアチア人はクロアチアとの2重国籍を持ち、ムスリム人やセルビア人との和解は済んでいない。
2002年6月。私はそんなモスタルのかつてあったであろうアーチ橋の代わりにかけられた板橋を渡っていた。西側の街のビルに残る夥しい銃痕に、戦争はついこの前だったんだなと、バルカンの片田舎に起こった悲劇の終わりのない戦後を感じたばかりだったのに、東側のムスリム人地帯に入ってみると、そこには、終わらない戦後どころか、今も続く川の向こう側から来た人間に対する不信と憎悪、拒絶の視線に身体が硬直する思いだった。
何気に入ったカフェでは、昼だというのに職にあぶれた若者たちがテレビのサッカーW杯を観戦中だった。戦争を知らない国からやってきた私たち日本人は、異邦人として気軽に仲間に加われると思っていた。だが、若者たちの鋭い視線は他者の一切を拒絶するものだった。その若者たちの視線は、ついさっきまで殺戮の現場にいた者のようであったし、血の匂いをかいできたばかりの獣のような凶暴性を秘めたものだった。
それは決して私達の日常にないものだった。
イラクで拘束された「戦争の犬」斉藤昭彦さんの映像を見たとき、彼の笑顔に感じたある種の不気味さ、それは殺戮を知っている者独特の不気味さだったのだが、それよりも強烈な、外から来る者をすべて拒絶する暴力的な排他的孤立感をモスタルの若者たちは漂わせていた。
その背景は町が雄弁に語っていた。橋を渡って市内に入ると、6メートルほどの道路を挟んで住宅地が並んでいた。そのすべての家、すべてもビルが銃撃の応酬で廃墟と化していた。同じ住宅地に住む者同士が、同じ職場に行く者同士が、子供たちが同じ学校で机を並べている者同士が、わずか6メートルの道を挟み激しく憎みあい、銃撃しあい、破壊しあったのだった。子供たちは親友の父親が自分の母親を射殺するのを目撃したであろう、親しくしていた大人たちが自分の家に火を放つのを目撃したであろう、集まった親戚が武装し親友の家を襲うのを目撃したであろう、6メートルの道に小さい時から知っている人々が無残な死骸となって横たわるのを目撃しただろう。
なぜこんなにも憎しみあうのか。
それがボスニア内戦だった。それがいつまでも癒されることなく、この町に暗く重く灰色の忌まわしい記憶として漂っている。
それはおそらくチェチェンでも、バグダッドでも、カブールでも今後残っていくであろう偏狭なナショナリズムが引き起こした内戦という名の愚行の残滓なのだった。
それでもこの苦難の歴史を何とか克服しようとする若者たちがいた。
スターリ・モスト=古い橋をもじってムラディ・モスト=新しい橋は、戦争で互いに憎悪の記憶を持った若者たちが和解の道を探ろうとするNGOだ。
日本のNGO「ピースボート」はこのNGOと出会うためにここを訪れ、私も同行したのだった。民族性やナショナリズムを信奉し、それが排他的暴力性を伴った時、いかに大きな傷跡と取り返しのつかない怨嗟を残すか、このモスタルに住む若者たちは時間を賭けて「過去を克服」しようとしていた。互いに背負った傷を告白しあい、相手の傷を理解しあい、明日の関係を築き上げようとする事は並大抵のことではないように思われた。
それを互いに殺しあった大人たちの世界まで広げるにはまだまだ戦後は終わっていなかった。セルビア人がムスリム人と仲良くすること自体がまだここではタブーだった。クロアチア人も同様だった。
私はそのムラディ・モストのメンバーの一人の家に民泊させてもらうことになった。
ムスリム人の20代の青年、内戦を少年時代に過ごした彼にとって今はつかのまの平和なのだろうか、今は戦闘はないとはいえ、どこか落ち着かない。NGOの集会に出ることさえムスリム人社会から偏見の眼で見られているのだった。
彼の家族も私達を歓迎しているようには思えない。仕事も満足になく生活も不安定、家も決して裕福とはいえない。遠来の客はありがた迷惑なのかもしれない。
彼の家に泊まることになったのは、私と60代と20代の日本人3人と、ベオグラードから来たセルビア人の若者の計4人だった。セルビア人はかつて連邦軍としてこの町を占領した。かつての敵同士。親同士は銃火を交えていたかもしれない。
小さなダイニングでムスリムの青年は「今日はとっておきの野菜が手に入った」とレタスのような野菜を嬉しそうにちぎった。生野菜は貴重なものらしい。パンとハム。それでご馳走だ。これでも歓待してくれているのだった。この町の生活水準が分かった。
食事が済むと、することがなくなった。
彼は父親の車だろうか、かなり老朽化した車でドライブに私達を誘った。
ネレトバ川の上流。小さな瀧があり、滝つぼがプールのように広がっている。
川岸に小さな広場があり、壊れたベンチがある。
かつて市民の憩いの場所だったところ。恋人たちが愛をささやきあったであろう場所。
私達は車座になった。世代も国籍も違う5人。実際のところ話題がない。
戦争の記憶は昼の集会で散々聞いている。若きムスリム青年とセルビア青年、今はボスニア人と新ユーゴ人となって国籍を別にしているが、かつては同じユーゴ人として生き、それが突然敵となり、大人同士が戦うさまをわけも分からず見てきた二人、二人にその意味を聞くのははばかられた。彼らこそが、内戦の意味を今も理解できずに生きているのだから。せめて明日は今よりよくなることを祈って。
ムスリム青年が「これもとっておきよ」とワインを出した。モスタル地方はワインの名産地らしい。「おい、イスラム教徒がワイン飲んでいいのかよ?」
「なんで?おいしいものを飲んで、おいしいものを食べる、これはどんな宗教も一緒だよ。うちでは豚肉も食べるよ。ユーゴでは宗教なんて関係なかったんだから」
ユーゴ内戦をセルビア正教、イスラム教、キリスト教との宗教戦争のように言うことがあるが、それは違う。彼らは内戦の前まで互いの宗教などに頓着しないで共存してきたのだった。
ムスリム青年はワインを陽気にあけた。
帰りの車中。突然、ムスリム青年が勇壮な歌を唄い始めた。それに合わせて、隣のセルビア青年も歌った。二人はいくつもの歌を一緒に歌った。それはどれも勇ましく元気な歌だった。ユーゴスラビアの歌だった。当たり前のことだが、かつて同じ教育を受け、同じ音楽を愛した者同士だった。オスマントルコに抵抗し、ドイツのナチズムに抵抗し、ソ連の支配にも抵抗し、常に強い独立心で生き延びてきた祖国ユーゴスラビアの歌を彼ら二人は共有していた。酔いに任せ二人は張り裂けんばかりの声を出して唄った。
しかし、彼らが大声を上げれば上げるほどその勇壮な歌は悲しく響いた。
もう、その歌にふさわしい祖国はなくなったのだった。
もうその歌は誰の歌でもないのだった。唄えば唄うほど、その歌を失うことになってしまった残酷な内戦という歴史が浮かび上がってくるのだった。
それは人間たちが愚かな国家主義に奔走し、無駄な血を流し、憎悪だけを遺産としてしまった歴史への鎮魂歌であった。
若者たちはどこまでも哀しかった。
後部座席に私達日本人3人がいた。50歳の私、60代、20代の3人。
私は思った。「私達が一緒に唄う歌はあるかな?」
悪い冗談を思いついた。「君が代」。これなら3人で唄えるかな?
やめてくれ、絶対に一緒に唄うもんか。
しかし、私達3人が一緒に唄える歌はおそらくそれ以外になかっただろう。
それを不幸と思うべきか否か。
私達に歌はなかった。
私達に歌はない。勇壮な国家の記憶もない。
勇壮な国家なんかいらない。
しかし、今時代はそんな歌を求めているような気がする。
国民がみんなで一緒に歌を唄うことを誰かが期待しているような気がする。
それは、強い国家を希求する声だ。偏狭なナショナリズムを鼓舞する声だ。
自分の非を認めず、他者を誹謗することによって成り立つ卑怯者の誇りが蔓延しつつある。
日本を国家という威信で飾ろうとする者が歌を求めている。
それは言わば“臆病者こそよく吠える”という現象である。
ごめんこうむりたい。
私達の歌など要らない。
5月。マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
5月。5月に死んだ友だちのため これからはただ彼らのために
私達の歌はないが、私の歌はある。
たとえばそれはこんな歌だ。
歩き疲れては 夜空と陸との隙間にもぐりこんで
草に埋もれては寝たのです 所かまわず寝たのです
5月。高田渡と橋田信介に思いを馳せつつ。
了 |