『境界線上の子供たち』

彼は同級生から見ると、『異色の行動派』だったという。
高校に入学し、成績も良く、文化祭やクラスの活動にも積極的だったが、2年の終わりに「通信制の学校で試したいので転校する」と言い出す。親しい友人には「プロボクサーを目指す」とも言った。結局、日本放送協会学園(NHK学園)に転校。自宅で学びながら時々はNHK学園に行き、そこを卒業した。放送関係の仕事がしたかったのかもしれない。
だが、卒業してから彼は、福岡建設専門学校に入り、建築技術を2年学んだ後、塗装会社に就職し働く。しかしそれも2年持たず、上京し、アルバイトをして暮らした。
その後、外国語が学びたいとニュージーランドに語学留学をするが、それも飽きたのか、もっと他の世界が見たかったのか、イスラエルに行き、イラクを見てみたいと思い、100ドルしか持っていないのに、アンマンからサマワを目指し、ザルカウィ一派とみられる「イラク・アルカイダ機構」に拘束され、結果惨殺された。
10月31日、首を切断された遺体がバグダッド市内で発見された。

彼、香田証生君は誰からも同情されなかった。
拘束が伝えられた時、報道フロアーで「バカかこいつは!」と切って捨てるスタッフもいた。イラクの人々を助けようとするNGOでもなく、イラクの惨状を伝えようとするジャーナリストでもなく、「何が起きているのかを自分の眼で見たい」という好奇心だけで行ってしまった24歳の若者は「無謀な馬鹿者」という刻印を押され断罪された。
それは好奇心だけで無謀な行動をすることを許さない、香田君とは何の関わりもない、もちろんイラクとも関わりのない、多くの匿名の声の断罪だった。
なぜだか知らないが、こうしたバカは許さないという、安全だが不安な、満ち足りてはいるが不幸な、ニッポンの「良識という名の悪意」が24歳の青年を葬り去った。

100ドルしか持っていないなんて。なんと無謀な。
しかし、彼が夢見た世界は、100ドルしかなくても、いや一銭もなくても生きていける世界だったのかもしれない。リュックを背負い、行きすがりの町や村に立ち寄り、片手間の仕事を手伝い、一宿一飯の恩義に預かれるようなそんな世界があることを夢見ていたのかもしれない。事実、たとえばカンボジアの田舎を旅すれば、気さくな農民が「ご飯食べたか?」と声をかけてくれる。パレスチナの難民キャンプで道に迷い、今夜の宿がないといえば、同情したアラブ人が、「床でよかったら泊まっていけよ」と声をかけてくれる。
勿論それにはこちら側の人間性というものが問われる。といっても人格者を気取る必要なんかない。ただの「人間だもの」でいいのである。好奇心いっぱいの、人と触れ合いたいと思っている無邪気な人間でありさえすればいい。
お礼に働くもいい。荷物を運んであげるのでもいい。何かを教えるのもいい。話を聞いてあげるだけでもいいかもしれない。
金銭に換算できないさりげない人間との出会い。そんなささやかな出会いを信じてはいけないのだろうか。
おそらくニッポンにおいては希少価値となってしまった人間のまっとうな営みを。
今ニッポンでは「畑仕事を手伝いますから今夜泊めてください」と言ったら変質者と間違われて通報されてしまうかもしれない。かつては、この風景のあちこちにそんな気さくさがあったような気がするが。
彼がそれをニッポンではないどこかに求めていたと考える事は出来ないか。

香田青年が、本当にそんな無邪気な青年だったかどうかは分からない。イラクの実情を知らなかった不覚もあるだろう。私も彼に特に同情はしない。
おそらくイラクやイラク人を愛してなんかもいなかっただろう。そもイラク人を愛するなんていう胡散臭さよりも、自分のことで精一杯で、何かの出会いを信じていた余裕のなさのほうが私には好感が持てる。
果たして、私たちに彼の無邪気さを断罪できるのだろうか。
『異色の行動派』として、自分が何をして良いのか、自分にふさわしい生き方は何なのか、何かに律せられることを恐れ、何かにはまることを恐れ、何ものにも帰属できない不安と戦いながら放浪した青年を、私たちは「どこかに立派に帰属した人間」として裁くことが出来るだろうか。たとえば私たちが否応なく帰属しているニッポンはそんなに立派なのか。
人々が彼を断罪して忘れ去ろうとするのは、彼と同じ不安から眼を背けたいからなのではないか。
そう。私たちはみな、不安という境界線上をさまよっているとは言えないだろうか。

薬に頼らなければ日常が送れない者がいる。
学園に通っていることに意味を見出せない者がいる。
通勤電車が棺桶に思える者がいる。
制服と事務机に決別したいと思う者がいる。
子と向き合えない親がいる。親に向き合えない子がいる。
夫と同じ空気をすえない妻がいる。妻を愛せない夫がいる。
企業戦士である自分を肯定できない者がいる。部下を信じられない上司がいる。
友人をもてないのに、携帯は放せない者がいる。
引きこもりを自己存在の証とする者がいる。
世界の平和を考えることに自己存在を投入したいと考える者がいる。平和とは戦争よりも忍耐強さが必要なことを知らない者もいる。
平和とは反逆することだと考える者がいる。
平和より戦争がたやすいと考える者がいる。
何よりも曖昧な自分に無性に苛立ちを覚える者がいる。
思考停止であることさえ「思考停止」する自分がいる。
自由と不自由、不安と癒し、幸せと不幸せ、希望と絶望、諍いと和解、理解と誤解、
歓びの涙と嘆きの笑い、饒舌な沈黙。
私たちはみな 揺れ動く境界線上の子供たち。
慌ただしい賑やかさの中で 過ぎ去った昨日をすぐさま忘れ
孤独の呟きを聴き 無知であることを知る。

そうした不安定な自分におののき、何かに忠誠を誓いたくなる欲求に駆られる。
それは楽だからだ。
それは往々にして「国家」だったり「主義」だったり「敵」の殲滅だったりする。
小泉ポピュリズムは次第にその方向に向かっているような気がする。
盲従への希求が、境界線上にいる不安定さからの脱出のように思えるが、それにどこまで抵抗できるか。

そうならば、なけなしの無邪気さで、好奇心の海を泳ぐ以外に精神の均衡など保てやしない。