『かゆい背中』

2002年の9月、私は重い荷物を持ちながら、よたよたと走っていた。
パレスチナ自治政府のあるラマラ。アラファトのいる議長府はもう何日もイスラエル軍の制圧下にあった。広い敷地にあった自治政府の建物のほとんどは完膚なきまでに破壊されていた。
私は数分前まで、各国の報道陣とともに議長府を望む民家の屋上にいた。
かつてはパレスチナ民衆やメディアの人間が気軽に出入りしていた議長府は、アラファト議長が軟禁状態にされているわずかに破壊を免れたビル一つを残すだけだった。そのすぐ下にイスラエル軍の戦車が数台駐留していた。砲塔はアラファト議長のいるビルに向けられていた。ジープが砂埃を上げあわただしく走っていた。イスラエルに占領されたパレスチナ自治区、そのリーダーのいるビルは完全に孤立していた。
異様な光景だった。ビルの中にアラファト議長以下何人の人間がいるのか。命令があればイスラエル軍の戦車がすぐにでも撃つことが可能で、アラファト議長を葬り去ることのできる一触即発の光景が目の前にあった。
誰も近づくことが出来なかった。ラマラの各所にはイスラエル軍が検問所を設け、議長府につながる道路を封鎖し、周りの民家を接収し兵隊を配備していた。
もう何日目になるのか。食料や水はどのように供給しているのか。アラファトは元気なのか。
取り巻く報道陣は何とかして議長府に近づきたいと思っていた。
みんな何とかスクープを物にしたいと思っていた。私もその一人だった。

いつもなら、私は気のあったドライバー兼通訳とここにいるはずだった。しかし、その頃、エルサレムからラマラへの道は車の進入も厳しく制限されていて、私のようなフリーランスの車は通行を許可されなかった。私は多くのパレスチナ人が使う乗り合いタクシーを乗り継ぎやってきていた。カメラバッグに三脚を一人で持ち、町の中心部から、へたへたと歩いてきたのだった。
私は多くの報道陣がいる場所を離れ議長府につながる道を探った。
2000年の11月から何度も来た場所だった。議長府につながる小道はいくつもあった。
その一つ一つを、どこかに抜け道はないか、間抜けなイスラエル兵はいないか。乾いた風は熱気をはらみ、砂埃は私の額にこびりついた。

するとある道からイスラエルの戦車が轟音を立て私のほうに向かって走ってきた。カメラを向ける私を無視するように戦車は走り去った。民家の中からイスラエル兵だ出てきて装甲車に乗り込んだ。その家の住人たちが声を上げながら道路に飛び出した。「イスラエル軍の撤退だ」
「いまだ!」
私は走った。議長府めがけてよたよたと走った。
瓦礫の山と化した議長府の入り口に、パレスチナ自治政府の要人やそれまで近づけなかった治安部隊の兵士、報道陣が殺到していた。
私も早く着いたほうだろう。日本のメディアはいなかった。破壊され土嚢を積んだ小さなビルの入り口に人々はなだれ込んだ。アラファトの側近たちが殺気立った様子で立ちはだかった。ビルに入る人間を制限しているのだった。私はカメラを片手で差し上げ「ジャパニーズメディア」とさけび、人ごみの中に紛れ込んだ。アラファトはどこだ、アラファトは元気なのか。制限されながらもやっともぐりこんだ報道陣の前にその人は現れた。アラブ語、英語、フランス語が乱れ飛んだ。シャッターが際限なく音を立てた。我先にマイクを向ける報道陣を側近が押しとどめた。最初に許可された記者が何かを聞いた。
突然アラファトが激怒した。私は近くの別な記者に何が起こったのかを聞いた。
「あなたはもうイスラエルに敗北したのですかって聞いたんだよ。そしたらアラファトが怒ったんだ。
『俺を誰だと思ってるんだ、俺はジェネラルアラファトだぞ』ってね」
アラファト将軍は意気軒昂だった。初めに質問しアラファトを激怒させた記者は排除された。
私も含め他の記者たちが、「次は俺だ」といわんばかりに詰め寄った。
そのとき思わぬことが起こった。アラファトが側近たちといつも会議で使う大きなテーブル、その上にまで上がって記者たちはアラファトに詰め寄っていたのだが、突然そのテーブルの足が折れ崩れ落ちたのであった。
その時、一瞬の静寂が会議室を襲った。私はカメラを向けながら、ふっと我に返った。
「俺はいったいここで何をしているんだろう? 世界の大メディアと同じようにジェネラルアラファトを撮ることが、俺のやりたいことだったのだろうか」と。
汗と埃にまみれた背中がかゆかった。

その年、パレスチナはイスラエル軍の軍事侵攻で各所で血が流れていた。
オスロ合意から一歩も進まない和平交渉、2000年9月から始まったインティファーダも2年がたち、人々は疲れきっていた。ヨルダン川西岸、パレスチナ自治区の街と街を結ぶ道路はイスラエル軍によって封鎖されていた。人々の通行はチェックポイントで厳しく制限され、仕事や学校、農地に行くのにもかなりの時間を費やさなければならなかった。車も同様だった。人々は時に乗り合いタクシーを何台も乗り継いで目的地に行かなければならなかった。以前なら一回でいける場所も、数箇所のチェックポイントごとに人々は車を降り、イスラエル兵士の尋問を受け、徒歩でゲートを通り、また乗り合いタクシーに乗る、その繰り返しだった。老人も病人も妊婦も。貧しい人間ほど苦しみの毎日だった。
私も時に乗り合いタクシーを利用した。
ある時、私はエルサレムの友人とラマラに向かっていた。何回目のチェックポイント、そこも車の長蛇の列だった。友人が言った。「後藤さんよ、ちょっと行って来いよ」
パレスチナ人と一緒の車に乗っているとはいえ、私にはプレスパスがある。時々私は、徒歩で検問所に行き、イスラエル兵に「報道なんだけどね、ちょっと急ぐんで俺の車先に通してくんない?」などと言って他の車より先に通してもらう事があった。
「お前が役に立つのはこんなときだね」と友人は私をからかった。
「仕方ない、行ってくるか」と、そのときも私は車を出た。おそらく今回は無理だろう、何しろ乗り合いタクシーで他の老人も乗っている車だ。私と友人だけならメディアだと言えるが、今回は他に3人ものパレスチナ人が乗り合わせているのだ、一緒に乗っている老人はどう見てもメディアの人間には見えない。予想通り、検問所に近づいた私をイスラエル兵は鼻であしらった。「お前一人なら歩いていけよ、車は順番」
仕方ないか、待つか。と戻りかけた私の眼に、渋滞の中にひときわ目立つ車が飛び込んできた。新品のランドクルーザーである。運転席には若いパレスチナ青年が一人。身なりも良い。おんぼろタクシーや、自家用車にすし詰めになりながら検問を待つ車列の中でその若者のランクルは異様だった。タクシーに戻った私は友人に聞いた。「おい、あの車はなんだい?」
友人は困ったような顔をして「それを聞いてくれるなよ、ミスター後藤」
「自治政府の役人の息子?」
友人はあきらめ顔でうなづいた。「これが現実さ」
抑圧と占領、軍事侵攻の中で未来に対する希望をどこに求めれば良いのか。貧しい普通の人が苦しんでいる。その人たちを尻目に自治政府の役人の息子は国際援助の金を自家用車に使っている。
これも現実。アラファトさんよ、そりゃあないだろうに。
それ以前も以後も、私はごく一般のパレスチナ人が自治政府に対する不満を口にするのを聞いていた。
しかし同時に、抑圧の中で心細くも唯一すがれるシンボルがアラファトさんであったことも事実だった。
他に誰がいる? アラファトを愛する以外に誰を愛すればいいのか。
引き裂かれた不安な気持ちをアラファトを愛し、アラファトを批判することによって紛らわす。

しかし、
どんな権力も腐敗する。

あの日もろくも崩れ去ったテーブルは、イスラエルに屈すまいと踏ん張りながらも、内部に堆積した腐敗で崩れ去る象徴だったのかもしれない。

西岸で、ガザで、軍事侵攻で破壊されつくした街の中に、時折立派な宮殿のような建物を見ることがある。アッバスの別荘さ。高官の私邸さ。
ジェネラル・アラファトの周りには確かにそうした現実があった。
イスラエル人の友人にそのことを話すと、「後藤さんよ、それも報道しなくちゃダメだぜ」とよく言われた。私は、「それより前にイスラエルの不当な占領を伝えるほうが大切だ」などと嘯いていた。

11月11日。アラファトは逝った。
私はテレビを見ていた。偉大な不死鳥はパレスチナではなく、パリで死んだ。
12日。私がよたよたと走ったラマラの議長府でアラファトは埋葬された。
人々の嘆きが聞こえた。私は、あの日崩れたテーブルを思い出していた。
多くの友人たちのこれからの多難を思いやった。
君たちはアラファトを愛し、憎み、アラファトにすがり、アラファトから自由になろうとした。
君たちがイスラエルの抑圧から解放され、パレスチナ内の腐敗から自由になる日は来るのか。

私にはそんなアラファトはいなかった。アラファトを失うことは私の切実な現実ではなかった。
ニュースではあったけれど。
切実なのは私の友人の明日のほうだろう。私に出来る事はなんだろうと思った。
背中のかゆみを思い出した。

どんな権力も腐敗する。

私の背中に腐敗菌はついていないだろうかと思った。
私に出来る事は、ゴシゴシと背中を洗うことだけだった。
11月11日は、アラファトの命日になった。それは私の娘の結婚記念日でもあった。
どちらもずっと覚えているかといえば、その自信はないのだった。