『無精ヒゲの考察』

イラクでの邦人誘拐事件の報道を見ながら印象に残ったことがあった。
自己責任論や政府の救出活動の無策ぶりではない。はっきり言って今回政府は無能だった。人質救出を成功させたのは、NGOをはじめとする市民の力と、アラブメディアとイスラム聖職者協会のおかげだろう。政府は無能ぶりを隠すために、5人の若者たちの思慮の足りなさをあげつらって、バッシングに転化させた。
でも私が印象に残ったのはそのことではない。
それは、無精ヒゲ問題だ。
今回の5人のうち、女性の高遠さんと高校を卒業したばかりの今井君以外の3人の若者がみな無精ヒゲの持ち主だった。郡山さんも、渡辺さんも、安田さんも皆、頬にヒゲを生やしていた。彼らの拘束をめぐって、支援者となった友人たちがたびたびテレビでコメントを発していたが、たいていの男性の友人たちがヒゲをたくわえていた。自称NGOや自称フリージャーナリストという人たちは何でみんな無精ヒゲなのか。
そういえば、高遠さんの弟さんも無精ヒゲの持ち主だった。
この無精ヒゲが私には気になった。

というのも同じころ、『報道ステーション』でメジャーに行った高津投手の特集をやり、アメリカに渡った高津が明らかな無精ヒゲを生やしていて、「何でメジャーに行くと無精ヒゲを生やすのだろう」と気になって仕方がなかったからだ。
そう言えば、イチローも、長谷川も無精ヒゲをはやしている。
スポーツに詳しいスタッフに聞いてみると、日本人は童顔なので「なめられてはいけない」から、ヒゲを生やすんですよ、という答え。
野球に限らずサッカーの選手にも多い。中田あたりからのブームなのだろうか。

でもそれならなぜ無精ヒゲ? 立派なヒゲを生やせばいいじゃないか。
なぜ、あの一見だらしない、ムシャ苦しい無精ヒゲを生やすのか。

そんなことを古舘伊知郎に話すと、「あれは無精ヒゲというファッションで、わざわざ無精ヒゲに見えるようにカットしているんだ」という見解。
わざわざ無精ヒゲ。
そう言えば、日本国内でも、電車の中でそういう若者を多く見かける。
無人島から帰ってきたわけでも、山に閉じこもっていたわけでもないのに、朝、歯を磨く時間がないわけでもないのに、無精ヒゲ。
中には歯を磨く時間を惜しんで、無精ヒゲを、無精ヒゲらしくそろえるのに時間をかけている奴もいるという。古舘によれば「無精ヒゲ用シェーバー」まであるという。
なんと! 倒錯した無精ヒゲ現象。
お前らほかにすることないのか! この前まで脱毛に腐心していたくせに!と私は叫んだ。

しかしこの現象は深い。
そも無精ヒゲの意味するところは何か。
それは、ワイルド、野生の自己演出だ。そうに違いない。もしくは荒ぶる心象の自己表現。
都会の洗練さと清潔さ、近代文明の明るさ、モダニズム、何もかもが整然と人工的に配備された空間の中で、「人間らしさ」を失いたくないもんねという、あがきにも似た抵抗なのではないか。
まだ自分の中には原始から続いている、人間本来の野生が残っている。男ならそれは自然発生するヒゲの存在だ。
そう、無精ヒゲの気分は、身体性への渇望ではないか。養老孟司さん風に言うなら、脳化社会からの逃亡欲求ではないか。合理性から本能性への転化欲求。

生命の危機まで感じ、毛穴から冷や汗で出るような緊張。はらはらどきどきし、肛門がキュッと締まるような緊迫感。本能が身体を支配し、思考停止状態の中で、眼が耳が鼻が嗅ぎ取らなければならないような切迫した状況。
そうした無我夢中の真っ只中に自分を放り出してみたい。
いま人はそうした「体感」を求めているのではないか。
その現われが、「無精ヒゲ現象」なのではないか。

そうした「自己発見」、「自己実現」がかなえられる場所はどこにあるのか。
そうした場所として最もふさわしいところ、それは紛れもなく『戦場』または『紛争地』であろう。そこには理不尽な「死」があり、それゆえに「生」の輝きがある。

そう、皮肉なことに、哀しいことに、いま日本を覆っているのは『戦場』への憧れだ。
あれだけ戦争で痛い目を受けているのに、人々の根底には「戦場」への憧れがうごめいているのではないか。とても危険な「無精ヒゲ現象」がそこにある。

大晦日を思い出して欲しい。およそ世界中のどこを見渡しても、大晦日のゴールデンタイムに、三つのテレビ局が、殴り合い血を流し合う「格闘技ショー」を放送しているところは他にないと思う。はっきりと異常である。「戦場への憧れ」の代償行為としての「格闘技シュー」。どこかに荒ぶる気持ちがマグマのようにふつふつとたぎっている。
私たちの中に何か「暴力への渇望」に似た「身体性への欲求」がうごめいていると言えないだろうか。
少なくとも「はらはらどきどき感」を求める気分が潜在していると思えてならない。
それが心の中の、気分としての「無精ヒゲ現象」に思えてならないのだ。
自衛隊派遣を支持したのも、北朝鮮を制裁しろと声高に叫ぶのも、根底にそうした気分が国民を覆っているからだとは言えないだろうか。お願いだから「正義感」などと言ってもらいたくない。

イラクに行った若者たちにもそれがないとは言い切れないように思う。
彼らもまた「身体性」を渇望した「自己発見」の求道者のように思える。
だが、無責任に彼らを誹謗する側とはっきり違うのは、彼らはその「渇望」を抑圧する側に立って使うことを明確に拒否し(それを反戦のパワーに変えて)、抑圧される側に立ってみようと覚悟したことだと思う。
だから私は、高遠さんや今井君や、郡山さんや安田さん、渡辺さんたちの「身体性への自己実現」を非難できない。それでよかったのです、と言ってあげたい。だからわざわざイラクに行ったんですよね。
と同時に、あなたたちは自己実現のために行動したのだから、それを崇高視もしませんよ、と言ってあげたい。彼らの行動原理を肯定はするが、ことさら賞賛もしたくない。
彼らも自分のやろうとしたことがことさら崇高だとは思っていないと思う。自己責任? そんなことは百も承知と思っていることと思う。

問題は、それを思慮が足らない輩だと誹謗中傷する「無精ヒゲ症候群の輩」のほうである。
この輩の中には、安倍さんや石破君も、福田さんも小泉さんも入るのだが、もっと厄介なのは、自分の中に「無精ヒゲ症候群」があることに無自覚でありながら、嫉妬を根底にバッシングする、それこそ思慮の足らない人々だ。ちょっと考えてみれば分かる。私たちの政府に思慮なんてものがありますか?思慮のない人たちが、少なくともイラクの人にとって役に立つことをしようと思ったり、戦場の真実を伝えようと思った若者を「思慮が足りない」と誹謗する。
恐ろしいまでの倒錯。荒ぶる気分を持ちながらそれを自己実現できない輩が狂ったようにここぞとばかりにバッシングをする。

問題はこの「無精ヒゲ症候群」、「無精ヒゲの気分」の行き先だ。
スポーツ選手ならそれをフィールドで発散させる。思慮ある者はあえて窮地に自分を置いて、何ができるか挑戦してみる。それができずにウジウジしている輩が、チマチョゴリの女学生をいじめたり、弱い子供をいたぶったりしている。
いま「無精ヒゲの気分」は岐路に立たされている。困ったものだ。

私の先輩のジャーナリスト二人が今もイラクにいる。
一人は「趣味ですから」といってイラクに行った。
もう一人は「何か面白いことないかな」とイラクに行った。
彼らは反戦思想とか、崇高な任務を担っているなんていう気負いも義務感もなかった。
もちろんブッシュや小泉の支持者でもない。
そこに人間の赤裸々な姿がある。それが興味深い。それを見つめに行った。
そして、日々「戦場の真実」を確実に伝えてくれている。

彼ら二人は無精ヒゲなんか生やしていない。