『恥の時代』

12月26日。航空自衛隊の先遣隊がイラクに向けて出発した。
NHKのニュースを見ていると、この非公開された陸上自衛隊の訓練の様子が流れた。
拳銃で的を撃つ訓練、自動小銃で動く的に向かって連射する訓練、装甲車から機銃であたりを掃討する訓練、検問の訓練、そんな訓練の後におまけのように女性隊員が病院で病人を介護する訓練が付け足してあった。
この訓練の、どこが人道支援のための訓練なのか。射撃訓練を見せ続けたNHKにそうした問いかけはなかった。

治安という名の武装攻撃訓練。敵を殲滅する訓練。戦争の訓練。敵を想定した訓練。
誰が敵なのか。テロリストという名のイラク人か。
イラクの復興のために。イラク人のために。
そのイラク人の中に占領に抵抗する者たちがいるのである。
そもイラク人とは誰のことなのか。シーア派か、スンニ派か、クルド人か。
抵抗しないイラク人は支援の対象であるイラク人、抵抗するイラク人はテロリストとして殲滅すべきイラク人とでも言うのか。その区分けは誰がする? その区分けを人道支援を任務とする自衛隊員の誰が出来る?
イラクという1932年に独立した国は、なぜにこうした分類の人々が住んでいるのか。
簡単である。その分類はイラクが建国される前からあったのだ。そこは100年も前を振り返れば、ただのアラビアだったのだ。シリアもレバノンもサウジも、ヨルダンもパレスチナも。ただのアラブ人が住む広大な土地を英仏が分割支配し、果てにさしたる根拠もなく国境という名の線を引き、そこに国民として住んでいたわけでもないアラブ人たちを、「お前はイラク人、お前はレバノン人」と国籍という名のアイデンティティを強要したのだ。イラクの中にクルド人が入ってきたのではない。クルド人が住んでいた土地が、イラク、トルコ、イランという国の線引きによって分断されたのだ。そしてそれらの国を互いに憎しみ合わせ戦わせ合う歴史が20世紀を翻弄してきたのだ。
だからフセイン政権が崩壊した今、イラクという国や、イラク人たちという呼び方はきわめて曖昧だ。曖昧な人々への復興支援・人道支援。もしそれが、平和な邦日本の大義だとしたら、それはイラク人の人たちのためではなく、アラブの人々のためでなくてはならないだろう。たかが100年に満たない歴史の中で、西洋に分断され、独裁者に苦しみ、アメリカの侵略に傷ついたアラブの人々がいる。イラクだけではなく、レバノンに、シリアに、ヨルダンに、そしてパレスチナに。イエメンにもソマリアにも、エジプトにもいるだろう。善良なイラクに住む人々や、亡命イラク人と呼ばれる人々の苦悩は、こうしたアラブの悲劇に裏打ちされているに違いない。
自衛隊派遣を肯定する側も、それに反対する側も、双方が「イラク人のために」とのたまう。教えて欲しい。イラク人って何? 答えろマスコミ!
自衛隊派遣論議の中ですっぽりと抜け落ちた視点。私たちの認識。
その意味においても私たちの自衛隊派遣はとても恥ずかしい。

今、自衛隊員たちは曖昧なイラクの曖昧な敵に向けて武装訓練を続けている。
そしてやがてそれは「訓練」ではなくなる。
「曖昧な敵たち」は、自衛隊員たちを「明確な敵」として迎え撃つだろう。
支援に向かったはずの自衛隊員たちは、厳重な警備に囲まれた基地の中で、恐怖の日々を送ることになる。それはきっと収容所生活に似ていることだろう。過日、サマワにおける基地の予想図が新聞に掲載されていたが、それは支援基地ではなくまさしく刑務所、または収容所を思わせるものだった。

12月24日の毎日新聞「記者の目」で滝野隆浩記者が書いている。
「陸自隊員にはお願いがある。もし派遣が決まっても、がんばらないでほしい。こんな言い方は、自衛官たちが一番嫌うかもしれないが、あえて言う。今回だけはがんばらないでほしい。できないことは、できないとはっきり言ってほしい。そのことで『臆病』などとは決して批判しないから。」
しかし、任務に赴く隊員たちはがんばってしまうだろう。行けば誰だってがんばってしまうのだ。できないことをできないと言えなくなるのだ。
歓迎の中に敵意と憎悪の視線を探し、撃たれる前に撃つという準備を怠らず、ひとたび仲間が危険にさらされたら引き金を引くだろう。
走りくる車はすべて自爆テロリストだと思い対戦車砲を撃ち放つ日も遠くないだろう。
これは自衛のため、イラク国民の支援のためと言い聞かせながら、その矛盾に苦しむものも出てくるだろう。
仲間がやられたら、「イラクのため」という曖昧な大義はどこかに吹っ飛んでしまうだろう。
レジスタンスは戦車に乗ってやっては来ない。抵抗者は市場や学校や民家の中に「普通のイラク人」として潜む。「やられる前にやれ」と誰もが思うだろう。市場や民家に無差別攻撃をする「自衛」が公然化するだろう。
イスラエルがやっているように、アメリカがもう何度も世界のあちこちでやったように。
そして日本もまたわずか60年前にやっていたように。
やがて、隊員保護のための増兵が行われるだろう。自衛という名の侵略が行われるだろう。
テロリストたちへの報復が公然と肯定されるだろう。
やりたくてやっているのではない。腐った正義が振りかざされるだろう。
その時、マスコミは「戦況報道」に明け暮れるだろうか。新聞はかつての間違いを犯さないだろうか。初めて日本の海外参戦を報じるテレビはどうだ。

そしてまた「戦後」が来て、再び「あの戦争は間違いだった」と頭を下げるのだろうか。
「イラク戦争文学」が生まれ、「イラク戦争映画」が作られ、自衛隊員の体験記や反戦記が鎮魂を奏でる日がやって来そうだ。
もう何度も繰り返された人類の愚挙。

恥ずかしい。私たちはとても恥ずかしい。
少しは歴史を学んだつもりになっていたのに。