『終わらない夏』 −父の書斎にて
弔電
「ご尊父様のご逝去を悼み謹んでお悔やみ申し上げます。
生意気盛りの高校生であった私達とも対等の視線でお話してくださるふところの深いお父さんでした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。」

8月8日父が死んだ。11日の通夜の晩、私の同級生から弔電が届いた。
別な同級生からはE-mailで同じ意味の文章が届いた。

「あの時代に我々と正面から向き合って語り合ってくれた父上のご尊顔今でも思い出します。受験をどうするんだ、高校生は机にしがみついていればいいんだという大多数の父親の中にあって我々と語り会おうとしてくれた父上を先年亡くなりました私自身の父同様、尊敬申し上げてまいりました。」

あの時代。1969年から70年にかけて。私は都立の高校に通うごく普通の高校生だった。
大学紛争のあおりを受けて、普通の高校生は落ち着かなかった。1969年1月の東大安田講堂の陥落は、進学校にいた私達に影響を与えた。「大学なんか行っても意味があるのか」
それは、学生達が反権力を叫ぶその意味とは別なものだった。私に関して言えば、ちっとも面白くない日常がこのまま続くことに対する苛立ちと、もてあました退屈の中で、「何か面白いことないかな」と煩悶する中から出てきた、なんとも頼りない大学否定だった。単にこのまま普通でいることに耐えられない、はっきり行って現実逃避に過ぎなかった。それを現実否定に転化し、自己否定などと嘯いていた。
医学部の問題に端を発した東大紛争に較べ、なんとも矮小であったが、私の通う都立高校では、修学旅行に関するリベート問題だったと思うが、数人の生徒が学校側を追及し、ハンスト、集会、さらに大学紛争を真似した授業ボイコット、全学封鎖とエスカレートして行った。大学受験を真剣に目指していた学友にとっては迷惑な連中だったろうが、私はボイコット側のグループの中にいて「退屈ではない日常」の中ではしゃいでいた。調子に乗って、PTA集会に、当時のファッションともいうべきレインコート姿でつたない演説をぶったこともあった。その日帰宅すると、母がたくさんの抗議電話に応対している姿があった。「あんた学校で何したの?」であった。
親しい友人何人かとともに、親達から見れば私は首謀者の一人だった。

そんな日々の中、友人の父親と私の父の二人が首謀者グループを集めて話し合いを持った。
今となっては話し合いの内容などはまったく忘れたのだが、友人の父親も私の父親も、学校に反逆する理由をわめき散らす私達に対して、それを諌めることも否定することもなくじっと耳を傾けてくれた。「誰が学校に行かせてやっていると思ってるんだ」とか「学生の本分は勉強することだ」とか、私達がうんざりするような小言は一切なかった。
高校生の時などは仲間といる時は元気な奴も、いざ親が出てくると萎縮してしまうものだが、私もなんだか居心地の悪さの中で聴いていたと思う。
私の父は「君達が正しいと思うならそうすればいい」と言ったと思う。
私はみんなの手前そう言っているのかな、と思ったり、本当は私自身に対しては失望や怒りを持っているんじゃないかな、と思ったり、よくわからなかったというのが正直なところだった。
その日父と二人きりで話をしたかどうか、まったく記憶がない。ただし、私の父母が学校やPTAに意味もなく謝罪したりしなかったことは確かである。
とにかくその時の私の父の対応が、仲間にも印象に残っていたのだろう。

あれから30数年。弔電の一文で私は、父の在りし日の姿をあらためて思い出した。
ふところの深いお父さん。
そうとも言えるな。そうとも思ってきたな。
話し合うこと、理解すること、認めること。
その意味では私の父はきわめて民主的な男だったと言える。
しかし、それは本当の父の姿だったのか。本心では私に対して叱責したかったのではないか。もっと感情的になりたかったのではないか。そうではないとしたら、彼の何がそうさせたのか。
ごくたまに、冗談めかして言うことがある。「あの時親父が暴力的に勘当だ!とか、許さん!とか言ってくれていたら、俺の人生も違っていたのになあ」
なんとも甘ったれた言い方だが、たまに己の人生と向き合う時に、父の私に対する向き合い方に、わずかな疑問が頭をもたげることはあったのだった。

私はあの日からずっと、いつか父の真意を聞いてみたいと思ってきたことを、今思い出す。そう、ずっとそのことが気になっていたのだった。いつか聞いて見たいと思っていたのに、とうとう聞けなかった。そのチャンスは永遠に失われた。
それに気づいたのは、父の葬儀が終わり、残った母のために煩雑な後処理をやり、後は墓だねと、事務的なことの忙しさにかまけていた夏も終わりに差し掛かったころだった。
悔恨がボディブローのように徐々に効いてきた。
聞き逃したことはそれ以外に無数にあった。二度と聞くことの出来ない記憶。
ああ、これが喪失感という奴か。

私の夏はまだ終わってはいなかった。いつまでも陽炎のように、私の眼前に漂っていた。
父は中国の大連で生まれ、大連で母と結婚し、戦後の昭和22年に引き揚げてきた。
病弱だった母と東京に住み、さまざまなアルバイトをしながら必死に生き、公務員となり、3人の息子を育て、堅実に生きてきた。

8月8日の深夜、父の遺体は実家の畳の間に横たわった。ドライアイスを施された父の死顔を一族が見つめた。私を含め3人の男ばかりの兄弟は今はそれぞれ家庭を持ち、一族が集まると15人にもなった。
通夜までの3日間、実家は忙しくも賑やかだった。私たち兄弟が葬儀の通知先を手分けしてやる中、甥や姪、私の娘や孫たちは、マージャンやゲームで遊び、父を偲ぶというよりも正月に集まったような笑い声が響いていた。妻や弟の嫁たちが手分けし料理を作り、年に数回集まるいつものような宴会が繰り広げられた。
そこに死体が横たわっていることが不思議な時間が過ぎた。
「笑いすぎだよ」とか、「死体が起き上がるぞ」とか、悪い冗談も飛び交っていた。
これが身内が死ぬということなのか。これまで、身内の死を経験したことのない私は奇妙な充実感の中で忙しく長男の責任を全うしていた。皆から見れば、頼りがいのある長男を演じていた。おそらく父が私に望んでいた姿のままに。

私たちは何回も父の書斎を行ったりきたりした。同窓会名簿はどこに、公務員時代の名簿は、大学教授時代の名簿は?
皆がそれぞれ父の書斎に物を探しに行った。
そして、行くたびに父の几帳面さを見て、感心してそこを出て来るのだった。
父の書斎は父の82年間の人生を見事に映し出していた。一日も休まずつけていた日記。
新聞や雑誌の切抜き。手紙類の引き出し。出納表や、薬の処方箋、はがした切手までがきちんと整理されていた。どの引き出しに何がどのように整理されているか、父は把握していたし、そうしなければ落ち着かない性格だった。
昨年の10月に入院、11月に食道癌の大手術、1月に退院。帰宅した父は体力を回復させるために散歩を義務づけていたが、その散歩のコースまでが詳細な地図入りのメモとして残っていた。
万歩計をつけ、今日は何歩、何キロ歩けた、明日はもう少しという、父の回復への意思が残されていた。日々のスケジュールをきちんと立て、それに忠実に従うのが父の生き方だった。
3月、父の誕生日を皆で祝った時父が嬉しそうに言った。「後藤家ギャラリーを作ったぞ」
交代で書斎を覗くと、書斎の壁にいくつもの写真が額に入って飾ってあった。
80年間の記憶の数々だった。昨年5月、皆で父の故郷である大連に出かけた時の誇らしげな父の姿もあった。
私が高校生の頃の家族写真もあった。そこにややふてくされ気味の私の顔があった。

一族の誰もが、父の几帳面さを知っていた。
私の娘はいつも「爺ちゃんはカッコいい。紳士だ。決して怒らないし、黙って聞いている」と評した。冷静さと謹厳実直、それが父の姿だった。
父はガンが再発し、再入院した7月も克明に日記をつけていたし、紳士としての矜持を最後まで失わなかった。
だから、私は死を迎える前の2週間に変貌した父の姿にうろたえた。
決して激する姿や甘えることのなかった父が、癌という病魔の前で崩れて行った。
看護婦におしめを取り替えられる屈辱に父は抗った。母を怒鳴った。
その後すぐその反省と自責の念で父は私にこっそりと謝り、「すまない、ありがとう」と力なく言った。
かっこいい爺ちゃんではなくなっていた。
しかし私にはそれでよかった。素直に感情を発する父が微笑ましかった。もう紳士を演じなくてもいいんだ。もう少し生きてくれ、聞きたいことがある。
その劇さない生き方、冷静な生き方はどこから生まれたの?
私たちにとってこよなく優しかった父、その優しさはどこで手に入れたの?

8月7日。入院先を代えた病院を訪ねた。私は1週間ほどロケに出て帰ってきたばかりだった。再入院した時に発見された癌の再発、治療はもう手遅れだと知っていた私たちの願いは、いかにして苦しまずに父を逝かせるかだった。死期までにはまだ時間があると思っていた。母や私が通いやすい実家の近くに転院し、様子を見ることにした。
癌そのものの進行とは別に、父は高カルシウム血症を併発していた。血中のカルシウム濃度が以上に高く危険だった。その数値を下げる治療が済めば、後はゆっくりと進むであろう癌と共生していけばいい。そのためにホスピスに移そうかと母と相談していた。
呼吸がやや苦しい父は、時々意識が混濁することがあった。
その日も父は混濁しているようだった。「久しぶり、調子はどうだい?」という私を認識できたのかどうか、父はうつろに私を見返した。「昨日ははっきりとしていた」という母の言葉を聞き、明日また来た時に話そう、これからは毎日話そうと思った。
私たちの手元には3月に父から渡された自分史の分厚い目次があった。
自分史・『茜さす峠に立ちて〜時は過ぎ行く〜』
表紙には父らしく「作成要領」まで書かれてあって、分担の項にプロデューサーに私の名前、装丁・デザインに次男の名、編集・レイアウトに三男の名がしるしてあった。
さらに、執筆態度として「自分史・自叙伝は、自慢話に偏り自画自賛に陥りやすいので、あくまでも謙虚に、事実を淡々と述べる態度を維持すること」まで書かれてあった。
どこまでも父らしかった。3人の息子に仕事分担をさせる誇らしげな父の想いがそこにあった。私たちが父の望むような大人になっているかどうかは別として、そう分担を命じる資格は紛れもなく父のものだった。それだけのことをしてきた立派な人物であった。
そして私には知りたいことがまだまだたくさんあった。
「明日また」と声をかけ、口元からずれた酸素吸入器を直してあげて、私は病室を出た。

その夜母から電話があった。父が息を引き取ったという知らせだった。

私の高校での反逆、大学進学の断念、21歳での結婚、定職も持たず今で言うフリーター生活、その時々に父は黙ってうなずいてきた。
思えば、父から激しい叱責の言葉やそれこそ体罰を受けた記憶はない。
いつでも冷静に、相手の言葉を吟味しながら、諭すのではなく、自分で考えるように促してきた父を私は思い出す。
それを私は当たり前のように受け止めてきた。そこに違和感はなかった。

はるか後年、テレビのディレクターとなってからの1997年、私は『金属バット殺人事件』という番組を作った。それは、東大出の謹厳実直な父親が家庭内暴力を振るう中学生の息子を、金属バットで殺すという陰惨な事件を検証したものだった。
私が心を引かれたのは、その息子が小学生の時に学校で父親について聞かれ「うちのお父さんは優しい」と答え、その父親がそれを「嬉しい、これでよかったんだ」と思ったと裁判で語ったことだった。
「うちのお父さんは優しい」
もし私が小学校時代に同じ事を聞かれたら、おそらくそう答えたかもしれない。
番組を作りながら私は優しい父親について考え続けた。
東大出の父親は私の父に比べ勿論若いのだが、まさしく戦後民主主義教育を受けてきた人間だった。話し合えば判る、子供に対して決して暴力を振るってはいけない。向き合う、受け止める。その挙句に、彼は息子の暴力に耐え切れないことを理由に、金属バットによって暴力的な殺害に至った。
優しい父親が溜め込んでいたものは何だったのか。

私の父に溜め込んでいたものはなかったのか。
勿論、私は家庭内暴力に走ることもなく、父が私に対して激情に駆られ暴力的になることもなかったのであるが、私には父の中にある「優しさ」の真の意味をずっと知りたかったのだった。広大な土地と風土を持つ大連で生まれ青年まで育ち、戦後の昭和23年に引き揚げてきた父にとって、日本は新たに生きるべき新天地であり、異郷だった。それは父の言葉を借りれば「なんとちっぽけ国」に過ぎなかった。そこに生まれつつあった民主主義の洗礼を父もまた受けていた。だが、満州の大地をルーツとする父にとって果たしてそれは希望に満ちた新天地だっただろうか。敗戦、そしてすべての過去の財産を一瞬にして失った者にとっての再生に、果たして大きな輝ける未来への希望は存在しただろうか。
あらゆる価値は一瞬にして崩壊することがある。
そうした底知れぬ虚無感や諦観がどこかで埋め込まれてはいなかっただろうか。
それはひょっとして父の中に極めて個人的な、彼の人生観、世界観を作り上げる原点とならなかっただろうか。
私は父の中に私の理解を超えた「喪失感」があったことを想像する。
それを自分だけのものとし、封印し、乗り越えながら「優しさ」を持って私たちを育てた父を尊敬する。
その「優しさ」は私たちに絶対価値を決して強要しないという信念に支えられていたと想像する。

一人の人間としてそのことを語り合いたかった。
思えば、大人になってから男同士として酒を酌み交わした記憶もほとんどない。
父の前で涙したこともなければ、父もまた真情を吐露することもなかった。
しかし、私の喪失感は父のものと較べればちっぽけな感傷に過ぎない。

今私は父の作った自分史の目次をひも解いている。そこに書かれた父の人生の断片。
「満州事変直後の修学旅行、祖国訪問、徴兵検査で肺結核発見、海軍を志願も拒否される、終戦、ソ連軍の侵入、男一人で母、義姉・妹二人を抱える、大連奉仕団と決別、労働団体に人質として連れ去られる、曹君の反共演説、引き揚げ、闇市仕入れの絹靴下を、香具師の親分に陳情、アイスクリームの製造・販売、ブローカーとして生きのびることに専念、MPによる手入れ…」

そこにはわくわくするような冒険談の予感が満ちている。また戦争にいけなかった人間の敗北感も漂っている。

その一つ一つが父の遺産である。
私の父の「喪失感」を探る夏はまだ終わりそうもない。