| 『地図にはない道』 |
パレスチナ・ガザ地区に、アブホーリ・ジャンクションという場所がある。ジャンクションと言っても交差点ではない。ガザの北部と南部を結ぶ道が一時交通ストップする検問所である。500メートルほどのクランク状の道が交互通行になっているのだが、イスラエル軍の厳しい通行制限で上りの車が通ってから、下りが通るといったように制限されている。勿論工事中というわけではない。いつも片側は大渋滞だ。
セルベス(乗り合いタクシー)に乗った私はいつもうんざりして外に出る。そのあたりに少年たちが立っている。彼らは仕事を待っている。彼らをガリッドと言うそうだ。
この検問所を通過する車には、3人以上が乗っていないと、テロリストとみなされ銃撃されても仕方がない。そこで、2人しか乗ってない車は、ジャンクションを通過するときだけ臨時にもう一人乗せる必要が出てくる。臨時に便乗し、向こう側についたら降りる。少年たちはそういう仕事をしている。一回に1NIS(ニューイスラエルシェケル約30円)が報酬だ。
なぜここがそんなに危険か。このジャンクションをはさんで二つのユダヤ人入植地があるからだ。ガザ地区に住むパレスチナ人約120万人。入植地に住むユダヤ人約7千500人。ガザ地区の30%を入植地が占めている。人口比で1%に満たないユダヤ人が30%の土地を占領し、パレスチナ人に怯えている。その治安のために通行を制限する。
この道は時として封鎖される。南と北が分断される。仕事にいけない人が出る。少年たちのわずか30円の仕事も奪われる。どんな急病人が乗っていようと、救急車も通れない道だ。
ガザに入るにはエレツという検問所を通る。パスポートが必要なまるで国境のようなところだ。5月になってにわかにこの検問所が厳しくなった。国連職員はもとより、外国人の往来を制限するようになった。特にNGO関係者はガザに入ることも、そこから出ることもままならなくなった。3月にNGOメンバーがイスラエル軍のブルドーザーにひき殺された。4月にも同じNGOのメンバーが頭を撃たれた。イスラエル軍による、見られたくないことがそこで起こっているのだった。
イスラエルの発行するプレスパスを持っていても通行拒否にあうことがある。数多くのメディアが長く待たされた挙げ句に拒否にあっている。
今回私はかろうじてパスできたのだが、従来そこを通過すると、向こう側はパレスチナ自治政府が管理する地帯で、乗り合いのタクシーがガザ市内まで運んでくれることになっていた。しかし今回は、タクシーはわずか1キロ先までしか行けなかった。
ガザ市まで一直線に続く道が数台の戦車で塞がれていたからだ。
人々は1キロ地点で車を降り、戦車の前を歩いて通り、また別なタクシーを拾う。
ガザ市内から自分の車でやってきた外交官が兵士に抗議している。しかしイスラエル兵は聞く耳を持たない。
老婆も足の悪い人も、幼児も妊婦も、イスラエル軍の銃口の前をうなだれて歩く埃まみれの道が広がっている。
ガザに入るとすぐ東側にベイトハヌーンという小さな町がある。ここはガザの中でも数少ない農村地帯である。今はオレンジのシーズンだ。もうすぐ収穫時期なのかもしれない。
だが、私の訪れた農家の、500メートル四方はあろうかというオレンジ畑の木々はすべてブルドーザーと戦車でなぎ倒されていた。倒れた木々の周りにオレンジが無残な姿で散らばっていた。炎天下、少年たちがのこぎりで倒れた木の一部を切っていた。
「何があった?」「イスラエル軍が、いきなりやってきてすべて破壊した」「なぜ?」「ハマスがここからカッサムロケットを撃ったから」「ハマスが嫌いか?」「ハマスは好きだ。イスラエル軍と戦ってくれるから。でも僕の家のオレンジの木の陰から撃たないで欲しかった」
畑のすぐそばの道は土砂で通行止めされていて、その向こうに戦車が砲塔をこちらに向けて止まっていた。
畑だけでなく、ハマスが隠れていたという容疑で農家が3軒爆弾で破壊されていた。15人もの家族が、国連機関から与えられた二つのテントで暮らしていた。
一人の少年が言った。
「お金を恵んでくれなくてもいい。武器をくれ」
オレンジ畑のそばの道はオレンジの出荷先であるガザ市に直結していた。しかし、その向こうにも戦車が砂埃をあげ走っていた。そこは人々のちょっとした通行も許さない道だった。
ヨルダン川西岸のジェニンに行こうとした。いくつもの検問所を通過した。
ジェニンに行くにはナブルスという街を通過する。その直前の検問所でたくさんの人が立ち往生していた。一人一人身分証を見せて通らなければならない検問所。そこはパレスチナ人自治区だったが、この状態はもう長く続いている。学校の教師も、病院で働くものも、政府の役人もすべての人が足止めを食らっていた。車体にTVのテープを張った私たちの車も止められた。プレスパスを手に通行を求める私に若きイスラエル兵は「今、ナブルスとジェニンはミリタリーエリアだ。一切の通行を禁止する」と言った。
4月の末に、アメリカ主導の『ロードマップ』が提案された。それによれば、第1段階として、5月末までにイスラエル軍が2000年9月以降のパレスチナ占領地から撤退することが謳われていた。その日は5月29日だった。
ジェニンの知り合いに電話をした。
「イスラエル軍の戦車、アパッチヘリコプターがさっきから銃撃を繰り返している」
次の日、その道は銃弾に倒れた青年の棺を運ぶ道となった。
西岸のラマラはパレスチナ政府の議長府がある町だ。5月各国の外相がそこを訪れていた。新しい首相、マフムード・アッバスやアラファト議長に会うために。おそらく西側から来た外交官は議長府を見て驚いたに違いない。イラクの空爆もかくあろうというほど議長府は瓦礫の山となっているからだ。2001年の末から2002年の9月まで、ここはイスラエル軍の包囲下にあった。わずかにアラファト議長の執務室を残して、すべてを爆破して行ったのだった。一国の大統領ともいうべき人物の窓のすぐ下に数台の戦車が駐留してきたのだった。そこはオスロ合意で認められた、紛れもないパレスチナ自治区の中心であった。
このラマラのひとつ向こうにビルゼート大学のある町がある。そこに友人がいる。
エルサレムから友人に会いに行った。パレスチナ人と同じようなルートで。
まず、エルサレムから乗り合いタクシーに乗る。カランディアという検問所で乗り換える。検問所を100メートルほど歩く。そこでまた乗り合いタクシーに乗る。ラマラの中心に着く。そこでまたビルゼート行きの乗り合いに乗り換える。山をひとつ越える感じでビルゼートはある。だがそこへ繋がる谷の道8キロ間は通行止めとなっている。車を降りる。照りつける太陽の下を延々と歩く。途中にイスラエル軍のジープが止まっていて、ボストンバッグよりも大きな荷物を持っているとチェックのために止められる。
汗をかき、ほこりにまみれ、その谷を通過した時点でぐったりと疲れている。
愛嬌か、アイスクリームを売って歩く男たちがいる。
砂がじゃりじゃりいいそうな頭をかきむしって、また乗り合いタクシーに乗る。
「よく来たね。もう2年8ヶ月も僕らはこうして学校に通っているんだよ」と友人が言う。
ラマラに住む彼と来た道を戻る。
頭にきた私は、老人を尋問するイスラエル兵にカメラを向ける。するとイスラエル兵は私の友人に尋問するからそこに座れと命令する。何のために。私と一緒にいたからか?
なぜ私でなく彼なのか。私を見る眼と、パレスチナ人である彼を見る眼が明らかに違っている。この眼にパレスチナ人の多くは50年以上も見つめられてきたのだ。
そこもまた紛れもなくパレスチナ人自治区だった。
眼下にはオリーブの畑が広がっていた。そこでの農作業も許されないのだった。
「見たろ、これがロードマップだ」
その日は、5月31日だった。イスラエル兵が蟻のように寡黙に歩くパレスチナ人の列を見ながらせせら笑っていた。
そこはパレスチナ人のどうしようもない怒りが蓄積される道のひとつだった。
キリストが生誕したといわれるベツレヘムの郊外に、デヘイシャという難民キャンプがある。そこにも友人がいる。
久しぶりに会った。彼の故郷の村は今イスラエルの土地となっている。彼自身は難民キャンプ生まれだが、祖父や祖母は55年前にその村から逃げてきた。
彼のように故郷を失ったパレスチナ難民は国内外に400万人いる。
アメリカが提案した『ロードマップ』に難民の帰還権は謳われていない。イスラエル側ははっきりと拒否している。パレスチナ政府も積極的にそのことは訴えていない。ただ建国を急いでいる。
抜けるような青空の下、庭に作った故郷のものとは比べ物にならない小さなぶどう棚を見ながら彼は言った。
「ロードマップ? ああ知ってるよ。でもその地図の上には僕らが故郷に帰る道は描かれていない」
今日6月4日、ブッシュとシャロンとアッバスが会談した。
了
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