『絶望と希望のはざまで』
皆様
ブッシュの演説を聞いて、底知れぬ無力感に襲われた人も多いと思う。
『対テロ』、『大量破壊兵器保有』に対する戦争が、『イラクの民主化』のための戦争に転化された国家の欺瞞。『イラクの人民を救うために』戦うだって? 嘘つけ。
戦争の大義はいつもいんちき臭い。
「国家」の戦争はいつも「国益」のためであり、「人益」まして他国の「人益」を考えた戦争なんかありはしない。

嫌な光景が頭をよぎる。米英軍がなだれ込んだバグダットで、イラク市民が、アメリカ国旗とイラク国旗を喜んで振る光景。
「フセインが去った。自由がやってきた。民主化万歳、アメリカ万歳!」
そうした報道が世界に配信されそうな気がする。
アフガンのカブール陥落の時に見たような光景が再び世界に配信されそうな気がする。
リポーターたちが叫ぶ。「イラク市民は独裁者フセインが去った今、歓喜の喜びをからだ一杯に表現しています」それまで掲げていたフセインの肖像写真を踏みつける市民の姿も映し出されるだろう。メディアはいつも勝者の側から描かれる光景を伝える。

アメリカの横暴に顔をしかめていた良識ある人々も思うかもしれない。
「勿論戦争には反対だよ。でも、イラク市民がこんなに解放されたならそれは良かったんじゃないかな。いや勿論戦争には今でも反対だよ」

アフガンに民主化と平和が来たのだろうか。よしんばアフガンという国が前に較べて平穏さを取り戻したとしていても、空爆で身内を殺された者の怒りと哀しみは決して消えない。今も残るおびただしい数の地雷や不発弾の被害をこれからも受ける者にとっては、「国家」の平穏なんか、微塵の慰めにもなりはしない。地上に生きる者にとって「国家」なんぞはあってもいいけど、それによって傷つくことは、どこまでも理不尽なことに違いない。

「悪」に対しては武力行使は当然だ。武力が、その国の人々を解放した。
その論理に納得するとしたら、「救う会」の佐藤克己会長が言うように「テロをなくすためにはイラクへの武力行使もやむをえない。北朝鮮への対応も同じ」に賛同することになる。日本でアメリカを支持する勢力の思惑は、「大量破壊兵器を持っている疑惑でイラクを攻撃するなら、もっと可能性のある北朝鮮をやっつけてくれ」であろう。
イラクが解放されたと思いそうな人々は、北朝鮮への武力攻撃にもまた「しようがないよね、金正日は悪い独裁者だし、人々が解放されるなら。勿論、原則的には戦争反対だけどさ」と言わざるを得なくなるだろう。

絶望的なまでの無力感。

アメリカも、イラクも、北朝鮮も、日本も「国家」と「国益」の奴隷だ。
フランスもロシアも中国もまた、「国益」のために反対しているに過ぎないだろう。
指導者たちは、国民という名の人間が、たまたまそこに生まれてしまった、あらかじめ「国民」なんかになりたいと思ってはいないただの「人間」であることは眼中にない。

18日、アメリカ大使館の前でデモがあった。全学連。久しぶり。
「我々は、全世界の労働者・人民のために戦う。プロレタリアートよ立ち上がれ」と叫ぶ。「人民のため」? これもまた「国家」の呪縛に縛られた指導者たちと表裏一体の物言いだ。「自分のため」ではなく、「人民のため」というどうしようもないアナクロ。今反戦を叫ぶことはノスタルジーではないはずなのに。

その全学連の雄叫びのそばで、10人ほどの僕も知っている若者たちが座り込みを始めた。
イラクであろうが、アメリカであろうが、「国家」の利益や面子やなにやらで「戦争」を遂行しようとする愚かな世界観にNOを言うために。NOと言える「自分のため」に。そうした人間であろうとするために。そうした人間を一人ずつでも増やして行こうと、彼らが世界を回っていたことを僕は知っている。同じ船にこの前まで乗っていたのだから。
さて、これは無邪気な反戦行為だろうか。その有効性はないだろうか。

19日の朝日夕刊で作家パウロ・コエーリョが言っている。
「ありがとう、ブッシュ大統領。ありがとう、すでに起動してしまっている歯車をなんとか止めようとして街路を練り歩く名もなき軍勢である私たちに、無力感とはどんなものかを味あわせてくれて。その無力感といかにして戦い、いかにしてそれを別なものに変えていけばいいのか、学ぶ機会を与えてくれて」

この無力感を別のものに変えていく営為はすでに始まっている。
「国家」という絶望的なまでの人類の愚かな発明に対して、軽やかに人間の共生空間を建設しようとする希望の行動は始まっている。
こうした行動の波及が、次に待っている北朝鮮への武力行使の歯止めとなるだろうか。
それとも、戦争には反対だが、人民が解放されればそれもいいかな、という空恐ろしい「善意」が勝利するだろうか。

絶望と希望のはざまで、少しずつ少しずつ、愚かなる私たち人類が、まともな人間に変化することを祈りつつ。
ふと考えるのです。「国家」なんかが出来てから、いいことなんかあったの? と。