| 『私たちは何者か?』 |
皆様
お元気ですか? イラク開戦、今か今かと落ち着かない日々が続いていることと思います。
かつて、湾岸戦争が起こったとき、僕はテレビ朝日の『ザ・スクープ』で『アメリカの正義』を検証する特集をやらせてもらいました。
ほかのディレクターが湾岸戦争そのものの検証し、これはあの「オイルまみれの鳥」がアメリカのやらせ映像であったことを暴きました。
僕のほうは、『ベトナムロード2400キロ』というのをやらせてもらい、1975年に終結したベトナム戦争の残したものを検証しました。ベトナム戦争もまたアメリカが正義を振りかざした戦争でした。
あの愚は、アフガンにつながり、今またイラクにつながっています。
戦争が残す負の遺産がどれほどのものか、アメリカという国は、今も反省していませんし、イラクへの武力攻撃ぐらい名目が立たないものもありません。
大量破壊兵器を持っちゃいけないと、世界でいちばん大量破壊兵器を持っている国がのたまう愚かしさは、子供にも分かることです。
大量破壊兵器を持てば、外交の最大の武器になる。アメリカが身をもって示す姿勢を、およそ国家というものを背負う人間たちが真似しないはずはないじゃありませんか。フセインも金正日も、アメリカの教えを忠実に守っている国家指導者といえるでしょう。
それよりも、今気になっているのは、そのような戦争の愚を検証する番組が、日本のテレビでどれぐらいあるかということです。
実は一ヶ月以上も日本を留守にしていたので、無責任なことは言えないのですが、世界中で反戦運動が高まっているのに、なぜ日本ではそれが盛り上がらないのか、メディアは今ここにある戦争の危機についてどう報じているのか、または報じる姿勢があるのかないのか、帰ってきてテレビ欄を見ても、さっぱり分からないことに疎外感を感じます。
驚いたことに、まだ昨日のように北朝鮮=悪魔の国報道ばかりが目に付きます。どうなってんの? って感じです。
今目を向けるべきは、繰り返し起ころうとしている『戦争』という狂気への冷静にして良識ある報道であるべきなのに。
『なぜアメリカはイラクを攻撃するのか』
これに真正面から向き合った番組って、今年に入ってあったのかな?
戦争には反対だ、と意思表示をした局や番組はあったのでしょうか?
表立って反対すると、悪魔の国=北朝鮮を制裁できないから遠慮してるのでしょうか。武力による国際紛争の解決を未来永劫、否定した国が私たちの日本であったはずなのに。まるで遠い国の戦争を見たくて見たくて待っているような、そんなムードを感じます。
北朝鮮が攻撃してきたらどう反撃すべきか、アメリカは助けてくれるのか。そんな論議ばかりです。
そんなことが起こらないための日朝国交正常化じゃなかったのでしょうか。
10数年前、『アメリカの正義』を問うような番組が作れたことは果たして奇跡だったのでしょうか。
いやそうは思いません。テレビというメディアが出来ることのひとつに、それがあり、そうした番組作りに意欲的なテレビマンがいたのであり、今もいるはずなのに、それが出来なくなっている構造がどこかにあるような気がしてなりません。それは、昨年からの北朝鮮報道が作り出したムードと関係があるような気がします。
『悪い国は武力によって征伐すべきだ』という論理が、9・11以後、マスコミにも刷り込まれてしまったのです。尋常ではありません。
どこかで戦争を望んでいる? そうは思いたくないけれど、それほどまでに病的な倦怠がこの国を包み込んでいる?
北朝鮮の体制批判も必要でしょうが、北東アジアの非戦化の可能性も同時に考えるのが、良識あるマスコミであるべきはずなのに。
もっとも、良識なんて退屈なものにはもううんざりなのかもしれませんが。
かつて作ったベトナムの番組や、過去に作った色々な番組を持って、この一ヶ月『ピースボート』に乗り、アルゼンチンから太平洋をさまよっていました。
イラクが起こればすぐ飛ぶつもりでしたが、それも起こらず、遠く船上から日本を眺めやっていました。
そして日本という国に生まれ育ってしまった自分を考えていました。
私たちは何者か。
そんな疑問を抱えた多くの若者たちも船に乗っていました。なけなしの金をつぎ込んで世界一周の旅に出た若者たちはみな貧乏でした。寄港地でもみな貧乏旅行です。しかし、その貧乏を共有できる国はこの地球上にいくつもありました。貧乏は不幸と同義ではありませんでした。
どこにも日本と同じ国はありませんでした。
僕が訪れた南米の国は、豊かな自然に恵まれているのに、グローバル化の嵐の中で資本主義経済の圧迫に苦しんでいました。豊かな自然があるのに、貨幣経済に翻弄されていることが不幸のように思えました。
船の上には、イラク攻撃を容認することは、北朝鮮攻撃を容認することにもなる、そう敏感に感じる若者たちもいました。世界は、一部の高度資本主義国のためにあるのではない。そう考える人々がいました。そうした想像力を持った人々がいました。
アメリカなるものが決して世界の常識ではないことをアジアやアフリカや南米で実感した人々がいました。
それはひょっとして、日本から遠く離れているからこその実感ではないかとも思えました。
そしてまた。私たちは何者か。
日本にいて日々流れるニュースにまみれていると、遠くに見える戦争という危機が、すぐそばで起こるかもしれない戦争と繋がっていることに鈍感になるのかもしれません。
ひょっとして、今メディアはその鈍感さを無意識に作り出しているのかもしれません。居場所が見つからないのかもしれません。
帰ってきて、僕はこの情況が、危険というよりも、絶望的なまでの滑稽さに見えます。
この国で自分の居場所が見つからない若者たちが、無国籍の洋上で世界を想像する。
この国で、この国のことを報道しているつもりのメディアが、あまりに想像力を失った単眼的な迷走の中にいて、自分の居場所を見失っている。
そのしっぺ返しが恐ろしくもあり、滑稽でもあるのです。
私たちは、日本人としてのアイデンティティ以前に、人間としてのアイデンティティを見失ってしまった哀しき極東の奇形児なのでしょうか。
なんだか底知れぬ虚しさを感じています。
そんな中でも『反戦デモ』を楽しくやろうとしている連中がいます。
3月8日には、僕も行ってみようかなと思っています。
引き裂かれている、たまたま日本に生まれた一人の人間として。
昨年末からパレスチナ、1月に入って北朝鮮、帰ってきてすぐにアルゼンチンから南太平洋、ちっとも日本にいなくてまるで逃亡者のような生活でした。身体にも相当ガタが来て、今日検査に行ったら、ただの胃炎でした。ああ、まだまだ飽食の日本人から逃れられないのかと自嘲しました。
今僕は物思いの中にいます。日本人であることなんかにこだわりはない。その前に人間として、お前は何者なんだ?
ぽっかりと口をあけた暗い深淵に引きずり込まれそうになりながら。
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