『退屈という名の病い』―またはある番組の終わり
僕は18歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどと誰にも言わせない。僕はひたすら退屈だった。

先日、テレビ朝日の『田原総一朗・戦後史を辿る旅 70年安保と全共闘』という番組を見た。番組宣伝のCMスポットで田原総一朗は、「なぜ全共闘世代は今沈黙しているのか」と東大安田講堂の前で叫んでいた。
1969年、全共闘にバリケード占拠されていた東大安田講堂は機動隊の導入によって陥落した。暑い季節が終わった。
あの60年代、反体制の名の元で権力にノーを突きつけた若者たち。
全学共闘会議(全共闘)とは、それまでの学生運動とは違い、政党の下部組織でもイデオロギーに縛られた政治組織でもなく、ごく一般の学生たちが自然発生的に集まり、大学に社会に体制にベトナム戦争に成田空港建設に、既成の価値観にノーを突きつけた闘いだった。
いま、国家が有事法制・個人情報保護法案・マスコミ規制法など、次々と国民をコントロールしようとする法案を作り上げようとしているとき、なぜ、あの時代の「闘った世代」は沈黙しているのか。そして「今の若者たちはなぜ闘わなくなったのか」が田原総一朗の問いかけだった。
残念ながら番組はその問いに真正面から答えることができなかった。あの時代と今との回路を探り当てることはできなかった。あの時代を懐かしむことはできたが、今を検証することに至らなかった。
残念な番組だった。とても残念な番組だった。
なぜなら、今こうした番組を制作すること自体が極めて困難な時代だからだ。

番組の中で田原総一朗と筑紫哲也が、全共闘世代の猪瀬直樹に聞いた。
「あれはなんだったんですかね?」
猪瀬は答えた。
「退屈だったんですよ。面白いことを探していたんですよ」

これを聞いて筑紫哲也は「それは面白い観点だ」と感心したように言ったが、「退屈」についてはそれ以上深く追求しなかった。

私は「何だ、今頃分かったのか」とあきれると同時に、全共闘世代をすぐ真上に見ながら退屈していたあのころの自分を思い出した。

1970年、私は18歳だった。私は退屈していたのに出遅れた。
全共闘の季節はその前年に終わっていた。

その意味で猪瀬直樹が言った「全共闘は1969年(東大安田講堂陥落・佐藤訪米)で終わっていて、1970年からのもの(よど号ハイジャックや浅間山荘事件)とはまったく別だ」と力説するのには納得できた。1970年からの学生運動は政治的武装闘争で、それは「退屈という病い」にかかっていた若者たちとは無縁のものだったのだから。

今だから思う。

「全共闘運動」とは戦後日本の「退屈」がある頂点に達した象徴だったのではないか。自分たちの力で勝ち取った戦後ではなく、与えられた戦後民主主義を物真似で生きてきた末のどうしようもない「退屈」が爆発した現象ではなかったか。それはだが、すねかじりのわがままな学生のただの「退屈」とは違っていた。機動隊に立ち向かう学生たちに国民が少しでもシンパシーを感じていたとしたら、それは、その「退屈」を共有していたからではなかったか。「このままでいいのか」「これでいいのか」と、誰でもが漠然と抱いていた日常への不安。それが「全共闘運動」という言葉のもつ意味なのではなかったか。
だから、それは政治運動としての有効性とは無縁のものだった。
おそらくそれを、田原も筑紫も理解できなかったのではないか。
猪瀬直樹が、「全共闘は1969年で終わった」と力説しても、二人は納得できずに、「全共闘運動の敗北は連合赤軍のリンチ殺人事件だ」と言って譲らなかった。ただの野次馬の放言だった。自分も戦後民主主義の「退屈」の中にいることにあまりに無自覚だった。

猪瀬の「退屈」にもっとこだわれば、「なぜ全共闘世代は今沈黙しているのか」の答えも探りやすかったかもしれない。「もう退屈じゃないんじゃないですか」と言うこともできるし、それではなぜ退屈じゃないのか、と問うこともできる。または、退屈な日常に無反応になってしまった日本人の姿を浮かび上がらせることもできたかもしれない。

この「退屈」に極めて自覚的だった人物がいる。
関川夏央が近著『石ころだって役に立つ』で、篠田正浩監督作品『乾いた花』について論じている。タイトルは「1963年の退屈」だ。
「この作品の主題は『退屈』である。いまだ戦後20年にもならないのに、登場人物たちはひたすら退屈であることの苦痛を訴えつづけるのである。それは世界と隔絶して成長し続ける日本の戦後という時代に対する不満である」
人を殺して3年ぶりに東京に帰ってきたヤクザ(池部良)が、近代化した東京にうんざりし、めぐりあった戦後生まれの退屈をもてあましている若い女性(加賀まりこ)と知り合い、賭場をさまよい、最後には、また人を殺していく。殺しに向かう時、池部良はこうつぶやく。
「でも、なんだか俺は今にぎやかな気持ちだ。俺は今、本当に自分につながっている。仕事をやり遂げようとしている」
関川は主人公たちを「平和に退屈し、平和を憎む気配さえ見せている」と評する。
この『乾いた花』の原作者は誰か。
石原慎太郎である。石原慎太郎こそ、1960年代の日本にあって、「平和に退屈」した人物に他ならない。全共闘世代よりずっと早く退屈していたのである。
政治家としての石原慎太郎が、他の凡百の日本の政治家に比べて危険なのはこの一点だと私は思う。
「平和は退屈」なのである。「退屈」ならば、「戦争を指揮し、一国の命運を操ってみたい」と思う人間もいるのである。その意味で石原慎太郎は危険なのであって、西洋にはこのような政治家は少なくないのである。
人類の文明的発展と退廃は、このような退屈人間を数多く作ってきたし、今も作っていると思う。
「退屈だから人を殺す」という動機の殺人者だって出てきておかしくない。
宅間守なんかが言いそうだ。

それはともかく、私もまた「退屈という病い」にかかった人間だった。私のは、戦後民主主義の「退屈」なんてものではなく、ただ途方にくれた「退屈」だった。
全共闘世代が「退屈」をどこに置き去りにしたのか、それを求めても仕方がない。
私は私の「退屈」と向き合うしかない。「本当に自分につながっている」何かを探さなくてはならなかった。そしてそれは容易に見つからなかった。全共闘にもなれなかった私は「退屈」を抱えた負け犬だった。大学へも行きたくなく、平凡な会社員になる覚悟もなく、際立った才能もなく、ただの社会の不適合者だった。

僕は18歳だった。それが人の人生で一番美しい年齢だなどと誰にも言わせない。僕はひたすら退屈だった。
もちろん、ポール・ニザンにもなれなかった。

「退屈という病い」を抱えながら、私はさまよった。今もその渦中にいるといってもいいのだが、幸いにしてやがて「退屈の有効利用」にふさわしい職場につくことができた。
それはテレビという現場だった。
日々違うネタを追いかけるテレビという仕事は「退屈という病い」を抱えているものには、適度の薬を処方してくれるのだった。
しかし、私ははじめ、テレビを斜めに見ていた。「映画は娯楽、テレビは堕落」などとうそぶき、真面目なテレビマンではなかった。特にレギュラー番組からは何かと理由をつけては逃げていた。誰にも言えなかったが、マンネリ化すること、すなわち「退屈」を恐れていたからだ。私を雇い、収入を保証してくれた諸先輩たちには大変失礼な話だが、まったくいやな奴だった。今でもそうなのだが。

テレビの仕事について12年たったころ、ひとつの番組とめぐり合った。
テレビ朝日の『ザ・スクープ』という番組だった。
報道検証番組と銘打ったその番組にめぐり合ったことが、だらだらと言い訳しながらテレビをやってきた私を変えた。
1991年、私は報道カメラマン石川文洋氏を案内人にベトナムへ行った。湾岸戦争勃発の折、「アメリカの正義とは何なのか」を検証するためだった。その年、和平合意に至ったカンボジアにも行った。戦後初のビザなし渡航が実現した北方四島にも行った。
ベルリンの壁の崩壊とともに始まった「ザ・スクープ」は、活字の世界からテレビ報道に転身したばかりの鳥越俊太郎を中心に、それまでなかった報道番組に燃える若いスタッフたちがしのぎを削っていた。
激動する世界情勢と如何に対峙するか、失敗を恐れず、果敢に挑戦していた。
以後私は、エイズをテーマにしたり、アメリカの児童虐待や家族崩壊、皇室報道検証、なぜか尾崎豊現象、市場経済化する中国、キレル若者たち、金属バットによる家庭内殺人、いま愛国心を問う、家出少年、北朝鮮、復活千葉すずから佐々木主浩まで、ありとあらゆるジャンルをやらせてもらった。それぞれに十分な取材期間が許された。というよりも安易な取材では許されない雰囲気があった。

現場にみなぎっていたのは「好奇心」だった。世界で起こっていることを知りたいと思う気持ちだった。そして「反骨精神」だった。体制には組みしない。迎合しない。
報道畑ではない私には報道の使命などというものは分からなかった。そんなものはあまり関係がなかった。私は報道番組ではややもするとおざなりにされる「映像表現」にこだわっていた。
私の担当した特集は「ザ・スクープ」の歴史のなかでは王道ではなく異端のものが多かったが、それだからこそ自由で奔放な制作現場になった。
面白いことをやる。それについては徹底的に討論を重ねる。そして分からないことは分からないと正直に立ち向かう。しかし安易な妥協はしない。それを許さない熱気がスタッフルームに満ち溢れていた。
番組の放送が終わってもまだ激論が続くこともあった。テレビ報道とは何か、映像表現とは何か。私たちとは誰か。

まったく幸福な時代だった。
相変わらず「退屈という病い」を抱えていた私だが、少なくともその「退屈」を石原慎太郎のようには使うまい、「退屈な抑圧者」にだけはなるまいと、ささやかな「退屈者宣言」を自分の中で自覚したのがこの時代だった。簡単に言えばそっちのほうが数段面白かったからに過ぎない。「退屈だから逆らってんだよ」と、あの頃とちっとも変わらない餓鬼だった。

その「ザ・スクープ」が終わる。

関川夏央は「1963年の退屈」の中でこう述べている。
「『乾いた花』が若書きの印象をとどめつつもいまだ新鮮に見えるのは、たとえ世界との対峙を余儀なくされた1964年以降でも、日本人は緊張から逃避しつづけ、その結果恒常的な退屈に対してさえ無反応になってしまったからだろう」

「ザ・スクープ」を終わらせた人々に言いたい。
「それで、退屈じゃないですか?」

テレビから面白い報道番組が駆逐されていく。それは「なぜ全共闘世代は今沈黙しているのか」と、どこかでリンクしているような気がする。

しかし「今の若者たちはなぜ闘わなくなったのか」とはリンクしていない。全共闘世代とは違う闘いをしている若者たちを私は知っている。テレビ報道が、それに気がつかないだけだ。私に彼らの「退屈」が共有できるかどうかはわからない。
私はおめおめと私自身の「退屈という病い」と付き合っていくしかない。

なんと呼ばれてもいい。
「あなたって退屈な男ね」と言われなければ。
僕はただそう言われることを恐れてきた。
僕は、それぐらい退屈で臆病な男だった。