『ジャパニーズの退屈な午後』または『点滴の夜』
昨年の12月24日、クリスマスイブ。
私は、だだっ広く白い道をずっと眺めていた。
エルサレムとベツレヘムを結ぶ道のチェックポンイト。イスラエル治安部隊はいつものように厳重なチェックで、車を1台ずつ止めては、ライセンスやIDカード、荷台を調べていた。ジープがやってきて、軍服を着た兵士がソニーのTVカメラを持って降りてきた。三脚を持った助手、ガンマイクを持った音声、みな軍服姿だ。イスラエル軍放送のスタッフたち。彼らは、チェックポイントのカメラをセットした。彼らも待っているのだった。

この日、クリスマスイブのミサがベツレヘムである。
例年のようにアラファト議長がこれに参加できるか。できるとしたら、車でここを通る。
その様子を収めたい。イスラエル放送でさえもその様子を撮影したいのだった。

12月中旬から、アラファト議長は、ヨルダン川西岸のラマラの議長府に軟禁状態にあった。普段なら、ガザとヨルダン川西岸を行き来するアラファトの専用ヘリコプターは、2機ともとっくに破壊されていた。もう空は飛べない。あるとしたら陸路。
しかし、アラファトが、パレスチナ自治区内を陸路で移動したことはない。自治区とは名ばかり、多くの入植地があり、ヨルダン川西岸の幹線道路は、イスラエル占領下、パレスチナ人は自由に車を走らせることはできない。アラファトとて同じだ。
それが始めて、車でベツレヘムまで行く。
どんなパレードになるのか。幹線道路の両側に住む、パレスチナ人、ユダヤ人たちはそれをどのように眺めるのか。それが見たかった。

時間が過ぎていく。午後の光が、人通りの少ない道を白く照らす。
陽炎が立つ。車は来ない。
私の帰国時間が迫ってきた。
アラファトはとうとう来なかった。イスラエル政府シャロン首相は、アラファトのミサ参加を許さなかった。私は6回目のパレスチナを後にした。

あれから3ヶ月。アラファト議長は監禁状態に置かれている。連日イスラエル軍の侵攻が伝えられている。毎日銃撃戦で死者が出ている。シャロンはアラファトに「出て行きたければ出て行け、ただし片道切符だ」と吐いている。
アメリカのブッシュはこの稀代の犯罪者シャロンの蛮行を容認している。
今日も、イスラエルの銃弾にパレスチナの人々が倒れている。
ラマラの議長府の前で語り合った治安部隊員の何人かも撃たれたに違いない。

12月のある日の午後、私は議長府の前に車を止めぼんやりとしていた。前方100mにはイスラエル軍の戦車が、その砲塔を議長府に向けていた。
ほんの1時間ほど前、その戦車に向かってパレスチナの少年たちが激しく石を投げていた。
私は、戦車の近くでそのインティファーダの模様を撮影していた。
その前には議長府の中で、民衆を前に演説するアラファト議長を撮影していた。
アラファトのまん前で撮影していた私とアラファトの眼があった。軽く会釈した私に対して、アラファトは日本式にお辞儀を返した。
アラファトは、民衆に対して「イスラエルの戦車に対して私はパレスチナの石で戦う」と高らかに叫んだ。
そして外に出ると、その声に呼応するかのように少年たちが戦車に対して石を投げていた。
占領に対して抵抗し続けること。
50年間もの抑圧に石を持って抵抗すること、それがインティファーダだった。
もう何度も見た光景だった。イスラエルの自治区侵攻が再びパレスチナ人の抵抗の意志に火をつけた。そんな光景だった。戦車は砲塔を威嚇的に動かし、白煙を撒き散らしながら少年たちに迫った。逃げる少年たち。戦車が止まると、再び石を投げる少年たち。
無力な戦いかもしれないが、それしかない。引き下がっては抵抗している意志を、あきらめていない意志を示すことができない。たとえ銃弾に倒れようが、決して屈しない。
それが占領から解放され独立を目指すパレスチナ人の総意だった。絆だった。

やがて、いつものように少年たちは引き上げた。
静かな時間が来た。戦車は無言で元の位置に戻った。

この日私は夜の7時にパレスチナ放送局の取材を予定していた。それまですることがなかった。少年たちの抵抗行動が静かになった後、車を議長府の前に止めドライバーとともに退屈な午後を過ごしていた。目の前の戦車を遠くに眺めながら。
議長府の前のパレスチナ治安部隊の兵隊が近づいてきた。私に興味があるらしい。
私は退屈まぎれにバッグの中から絵葉書を出した。機会があれば知り合った人にあげようと思って持っていた日本の絵葉書だった。富士山や日光や京都の絵葉書だった。
「これが日本だよ」と軽い気持ちで見せた。
兵士の一人が興味深そうにそれを手に取った。
「ビューティフル」とじっと見つめた。ほかの兵士もやってきた。みんなで絵葉書をまわし見し始めた。
「これが日本か」「お前は日本から来たのか」「日本はきれいだな」
奇妙な時間だった。目の前にイスラエルの戦車が駐留している。アラファトは軟禁状態に置かれている。かつてない緊迫感がパレスチナを覆っている。兵士たちは手に手に自動小銃を持っている。100mを挟んで対立する兵士がいる。
そんな午後に、日本の絵葉書をうらやましそうに見ている兵士たちの時間。
そんな午後を退屈している私。

ふと兵士たちのほうを見ると、ある兵士の困惑したような表情がそこにあった。
私でさえめったに見たことのない日本のそれこそ絵葉書ショットを、じっと見詰めるその兵士の表情はある悲しみを漂わせていた。
それは「絶対にここには行けないだろうな」という諦観に満ちていた。
やや時間がたつと、その兵士は、われに返ったように、にこりと笑い「いつかきっと行くよ」と私に語りかけた。
それは私に対するサービスだったに違いない。
その日本が、退屈な国なんだぜ とは私には言えなかった。

私が退屈な午後を過ごした議長府は今戦時下にある。議長府の壁は無残に破壊され、電気も水道も止められ、アラファトは窮地の中から「徹底抗戦」を叫んでいる。
あの憂いの表情で絵葉書を見ていた兵士はどうしているのだろう。
3月末、イスラエルの軍事侵攻が始まった時、私はすぐにでも行きたいと思った。

しかしその時、私は近くの病院で点滴を打っていた。薄暗い病院の緊急病室で点滴を見つめていた。

3月はじめにアフガニスタンに行ってきた。空爆からおよそ半年、アフガンに本当に平和は来たのか、空爆の残したものは何なのか、空爆は果たして解放をもたらしたのか、そんなものが見たくてジャララバード、カブールと駆け足で回った。
アフガンにはおびただしい不発弾が残っていた。カブールは国際援助の波で活気づいてはいたが、200ドルの家賃だった家が2800ドルまで高騰していた。ブルカをかぶったままの乞食が私たちの車の窓ガラスに顔をつけた。
ソ連侵攻時代、内戦時代からの地雷の上に不発弾が加わった。国際援助はまず首都カブールのインフラから始まるのだろう。これまで、ペシャワールに逃げていた、高等教育を受けた資本家たちが、その援助資金を目当てに続々と帰ってきているようだった。
平和も来たが、ドルも来た。そのドルが、これまで以上に貧富の差を生むことだろう。
にわかインフラ景気で多くの農民が農地を捨て都会に集まってくるだろう。
バンコクがそうであったように、プノンペンがそうであったように。都市はあわただしく西洋を装い、たちまちの内に醜く変貌するだろう。
アメリカがやっていることはそういうことだという実感を持った。

インフラよりも地雷を撒いた責任者、不発弾を残していった責任者が、まずそれを撤去せよと思った。アメリカの傲慢にまたも屈しなくてはならないのかと思った。
それでもアフガンの人々は笑顔に満ち溢れていた。それがつかの間の笑顔でなければいいと思った。近代化、西洋化、そんなものは決して人間を幸せにはしないと言ってあげたかった。同時に、私にそんなことを言う資格があるのかとも思った。
アフガンのナンというパンがとてもおいしかった。ほとんどそればかり食っていた。

帰ってきてしばらくして、ある夜、胃が痛み始めた。不摂生の報いがやってきた。
何か食べると胃が猛烈に痛んだ。
我慢できずに病院に駆け込んだ。これでもかこれでもかと飽食の日本に生きてきた私の身体はすっかりガタが来ていた。
内視鏡で見ると、食道が変形しているという。逆流性食道炎という聞きなれない言葉を聴いた。食い過ぎ飲み過ぎに違いない。
医者はストレスだと言った。冗談じゃない。ストレスなんかない、と言いたかった。

次の日の夜中にもまた痛んだ。病院に駆け込んだ。連日連夜点滴を打った。
薄暗い病院の緊急室のベッドの上で、私はポトン、ポトンと落ちていく液体を見つめていた。
ものを食べることさえかなわない難民をアフガニスタンで見てきた。
ものを食べると痛み出す己の胃や食道を呪った。何たる皮肉。

イスラエルの銃弾にいつ倒れるか、切実な毎日を生きているパレスチナ人。いつ地雷や不発弾の被害に会うか、死がいつも身近に寄り添っているアフガン人。そこでは「生」が輝いていた。
それに比べ私の切実さは、情けなかった。飽食で痛んだ肉体をもてあましていることが情けなかった。

たった今、パレスチナのベツレヘムに電話した。難民キャンプの友人の携帯電話につながった。イスラエルの戦車に包囲され、その追い詰められた占領地から一歩も出ることのできない友人は言った。
「I’m still live, Thank you calling」
まだ生きてるぞ、が挨拶だった。

俺もまだ生きてるぞ、と言いたかった。
何のために? なんだ。

後藤和夫