| 『NGOは誰のため?』 |
政治家という税金にたかるハエが、自分の選挙区に利益誘導するのは当たり前。
もう何度も見た光景だ。そのために官庁に入り込む、政官癒着の構図。
政治家という「生き方」が、権力を握り、税金の使い方を決める、それがなんだか立派な行為であるような社会通念が横行する限り、決して終わらない。
人から集めた金をどう使うかという仕事は、本来とても卑しく恥ずかしい仕事ではないか。
その恥ずかしい仕事をやる「必要悪」としての政治家が、この世でもっとも最低の人間の営為であるという常識が定着しない限り、このみっともない行為は決して終わることはないだろう。政治家になろうとする人は後を絶たない。
その意味で鈴木宗男は立派に政治家である。嘘つきこそ政治家の証しではないか。
政治家という存在が崇高で、それは地位があり、名誉があり、その功績が人々の役に立ち、国家や国益のために有益な仕事をする人であるであるという通念から人々が解放されない限り、こういう人間は後から後から出てきて、平気で嘘をつき続ける。
単純に言って私は思う。それが楽しいのですか? それが充実しているのですか? それが生きがいなのですか? それがあなたの幸せなのですか? と。
そこそこの文明の発達に恵まれていて、食うのには困らず、取り立てて欲しいものもなく、あるのはこの満ち足りてはいるがなんとなく不幸な「日々の退屈」。
それが分かっているのに、まだ経済成長が必要だという、根拠のない強迫観念から、生産と消費を繰り返そうとする人間社会。それが「豊かな」人間社会を作るのだと信じて疑わない西欧文明の価値観。
その価値観がずっとある限り、人は、地位や名誉や、わずかな富に執着し続けるだろう。それしか幸福への道はないと半信半疑のままに自分をそこに従わせるだろう。
ならばと、その執着を最大限の偽善とともに発揮する政治家という輩もなくならないだろう。
そうした生き方は、人間として本当に正しいのだろうか。
そうした生き方を自分に課すことに息苦しさを感じ、その社会通念に縛り付けられた自分が決して「豊か」だとは思えず、そこから自由になろうとする人たちがいる。
高度な文明社会に生きている自分が「まっとうではないのでは?」と疑問を持つ人たちがいる。世界にはもっと違う価値観があるのではないかと思う人たちがいる。
世界のどこかの違う価値観を持つ人々は、近代西欧文明が唯一正しいという世界観によって不当に傷つけられたり、迫害を受けたり、経済的に苦しめられたり、戦争や侵略や内戦によって、飢餓や恐怖や病に苦しんでいるのではないか、そう思う人がいる。
そしてその現実は、まぎれもなくこの地球上に存在する。
そちらのほうに身を寄せるほうが、この「まっとうではない世界」で生きるよりも「生きがいがある」と思う人がいる。
そういう人たちが、民間団体として、国益や国境や、主義や名誉や利益を越えて、「苦しんでいるなら助けてあげたい」というただ一点で、そちらのほうが自分の「生きがい」だと行動を起こす。
NGOとはそういう人々の「生き方」なのではないだろうか
「生き方としてのNGO」。
それはまず、自分のためなのである。この不平等で、理不尽で、富を幸福に置き換えた世界に違和感を覚える人々の「自分探し」だといえるだろう。
その「自分探し」が結果として人の役に立つのであって、まず「誰かを助けたい」があるのでないだろうと思う。「困っている人のために」は確かに美しいが、それはある時「国民の皆様のために」と同じように空虚に聞こえる。
「自分のため」でいいと思う。「自分探し」でいいと思う。
この世界の理不尽さに疑問を持って「自分探し」をした結果、それがこの理不尽さの犠牲となった人々との連帯を生む。
その行為の過程で、貧困や飢餓や病気や戦火に苦しむ人々を少しでも助けることに繋がる。
その時、それはWORKではなくMISSIONに似たものになる。
一市民としての、民間レベルの援助、すなわちNGOとなる。
だから本来、NGOは政府と対立するものであるに違いない。
「国益」を重視して援助を含めた外交をする政府に対して、「国益」よりも「人間」を重視するのがNGOなのだから。
アフガニスタンに対する援助活動をもう17年間も続けているNGO「ペシャワール会」。
中村哲医師の『医者井戸を掘る』は、そうしたNGO魂に満ち満ちた、苛烈にして痛快な報告だ。
内戦、旱魃、アメリカの攻撃。もうこれ以上破壊されようがないというまで破壊され、ただ生きていることさえも不可能な状況に追い詰められた人々を「病気は後で治せる。ともかく生きのびておれ!」と、世界のNGOが退却する中、「誰も行かぬなら我々が行く価値があろう」としゃにむに井戸を掘り、医療サービスを続ける。
400万人が飢餓線上にいる。その人たちを見殺しにするのか。
国連制裁に反対し、それを無知による国際社会の蛮行と断罪し、空爆に反対し、日本の自衛隊派遣は「有害無益」と切って捨て、国連やユニセフ、海外NGO の欺瞞を暴き、政府の指示で動くならもはやNGOはないと言い放ち、国会議員が持ってきた募金を「このような手垢のついた資金を受け取らぬのが我々の方針である」と突っ返す。
実に痛快。躍動感、気迫に満ち溢れたNGO魂が炸裂する。
そしてなんとも愛すべきは、国際赤十字が連日ステーキとワインを楽しんでいる時、「飯と沢庵」で「今夜はご馳走」とはしゃぐことのできる「見せかけの豊かさ」とは無縁のメンバーたちだ。
タリバンだろうと、北部同盟だろうと、暫定政府だろうと、右だろうが左だろうが関係ない。単純にして実直な人道支援、孤立無援の壮絶な戦い。
中村医師は言う。「私たちの役得は復活した村々の人々と喜びをともにできることである」
ただそれだけ。地位も名誉も、まして富など関係ない。それが自分たちの喜びのすべてなのだ。
「生き方としてのNGO」本来の姿がここにある。
しかし、この、世界でも唯一の、最後までアフガンに援助を続け今も続けている「ペシャワール会」は、今回の鈴木・真紀子騒動の発端となった『アフガン復興支援会議』には呼ばれなかった。
「一部NGOを排除」と問題視される以前からリストにも上がっていなかった。
なぜか?
実は、そもそも外務省はNGOを参加させる気はなかった。そこへ海外のNGOからクレームがついた。外務省はあわてて、日本のNGOを7団体選んだ。NGO同士が連絡をつけて、さらに問い合わせた。外務省はさらに7団体を加えた。
つまり鼻から外務省はNGOを無視するつもりだったのだ。だから本会議においてNGOの発言や意見を求められることもなかった。ただのお飾りだった。
これに関しての報道は余りなかった。「地道な活動をしてきたNGOが排除された」とその裏側を取材もしないで同情して見せただけだった。
では、復興会議に参加を許されたNGOとは一体なんだったのか。
鈴木宗男の圧力で参加を拒否されたJPF(ジャパン・プラットフォーム)とPWJ(ピースウインズ・ジャパン)とはどんなNGOだったのか。
鈴木の圧力のきっかけとなった、朝日新聞の『ひと欄』。ここで「お上の言うことはあまり信用しない」と大西代表が発言したことが鈴木の逆鱗に触れたことになっているが、正確に言うとこれは本文にはない。小見出しに「」つきで記者が書いたものである。
それが一人歩きした。記者の戦略だったのか。
それより私が気になったのは、大西さんが、「日本の政治家に北部同盟の有力者との会談をお膳立てした」と書かれ、それがNGOとしての功績のように書かれていることだった。
会談をお膳立てするのがNGOか?
中村医師「政府の指示で動くならもはやNGOではない」
また日本が援助した小麦粉が袋に詰め替えられ欧米人の手で配られていたことが大西さんの悔しさのように書かれているところも気になった。
中村医師もまた現地で似たような経験をしている。ペシャワール会が掘った井戸にポンプを提供していた欧州のNGOが、欧州NGO の名称をつけろというくだりだ。
中村医師は言う。「水源は地元民が生存するためのものであり、他所から入ってきた外国人が井戸の所属だとか登録番号がどうだこうだという筋合いのものではない。第一、誰が作ろうがかまわないのだ」
そう、誰が作ろうがかまわないのだ。NGOはショウ・ザ・フラッグではないはずなのに、大西さんの発言には「顔が見える支援」へのこだわりがにじみ出ていた。
大西さんらは鈴木宗男に挨拶に行ったときにも恫喝されたという。
しかし、NGOがなぜ、族議員に挨拶に行かなくてはいけないのか。
挨拶に行かなくてはならない理由があるからだ。
そも大西さんが代表を勤めるJPFは、外務省の肝いりで、経団連、メディアなどの支援で組織されたNGOの連合体なのだ。その連合体のひとつにPWJがある。年間5億円以上の資金が、緊急援助のために用意されているという。アフガン支援もつい最近始めたのである。
一方で自衛隊派遣のショウ・ザ・フラッグ、一方で援助のフラッグというわけだ。
それを政府に逆らうような発言をしたと朝日の記事が誘導した。
だから当然、外務省を自分の会社だと思っている鈴木は怒ったのである。
「金出してるのは誰だと思ってるんだ!」というわけだ。
まったく、地位と名誉と利権が何より大事だと思っている人間らしい行動である。
その構造を知っているから「ご挨拶」に行ったのである。
一方、「ペシャワール会」は4500人の会員による100%純粋な寄付によるNGOであるから、中村哲さんは平気で政府批判もできるし、それどころか、米国指導の国連、WFP間でもばっさりとやる。ひるむところは微塵もない。
おそらくアフガン復興会議が行われているときも「何が今頃復興だ、援助だと騒いでるんだ、そんな暇あったら、今すぐ一人でも餓死者を救うのがNGOだ、呑気に東京で会議なんかやってる暇か!」と言っていたことだろう。
これで明瞭なように、国際会議に出席したお飾りNGOは、政府の息のかかったNGOであることが容易に想像できる。
しかし、これもまた、詳しくは報道されていない。なぜか。
大マスコミもまたNGOを軽視しているからだ。NGOの問題よりも田中対鈴木の喧嘩だけが面白いのである。
NGOとは何か、NGOの役目とは何か、NGOと政府の関係はいかにあるべきか、そこが新しいベンチャービジネスにならないようにどうすればいいのか―そう考えて金儲けとしてのNGO、NPOをやろうとしている輩も多い―そうしたNGOに対する基本的な報道姿勢がないからだろう。
大西さんもおそらく「生き方としてのNGO」で始めたのだと思う。
しかし多くのNGOが、ペシャワールの会のように、寄付による自己資金だけでは活動が維持できない。そこで政府の助成金を当てにしたのだと思う。また、従来のNGO活動では、緊急援助が必要なときすばやく行動ができないので、JPFを立ち上げたのだと思う。
そして、ここにNGOのジレンマがあると思う。
私自身いくつかそうした政府の助成金をもらっているNGOを取材したことがある。いずれのNGOの人たちもまじめで真剣で、尊敬に値する人々だった。その活動は現地の人に喜ばれていた。
しかし、同時に、政府の有形無形の圧力とも戦っているのだった。
そうした一面的ではないNGOの現在について正しい報道がないのがなんとも残念だ。
真相は、鈴木宗男落としの影でまたもやうやもやになるであろう。
そして、マスコミは、前のように、NGOを物好きな民間がやっているような自己満足の慈善事業のように見下すだろう。「生き方としてのNGO」よりも「生き方としての政治家」に重きを置くだろう。
しかし、世界は政治家のどす黒い欲望よりも、国家・国益を超えた民間の連帯が動かし始めている。「生き方としてのNGO」にいま大きな可能性があると私は思っている。
了
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