『水汲みロイちゃん』
アフガニスタン、カブール陥落。タリバンが去って喜ぶ民衆の姿が報道された。町に派手な女優のポスターが貼られ、子供たちは凧揚げをし、ラジオを聴く人や、映画館が再開される様子。嬉しそうに髭を剃る人、ブルカを脱ぎ顔を見せる女性。報道の多くはタリバン圧政下から開放された市民を「自由」を取り戻したと、浮かれた調子で伝えた。「治安良好、物資も豊富」。「自由と活気」。
しかし私はそれを奇異な感じで受け止めた。
「なんだ、タリバンの圧政といってもたいしたことなかったのかな?」
アメリカの、ビンラディン=アルカイダ主犯説からいつの間にか、まるでテロの首謀者のように敵視され、その強圧的な政権ぶりが伝えられてきたタリバンだが、人々はその政権が敗走すると、かくも早くラジオや女優のポスターを出してくる。音楽テープ屋が開き、果物や野菜が市場に並ぶ。
「なんだ、ちょっとの間我慢してたんじゃないか、隠し持っている自由はあったんじゃないか」
第一、「物資も豊富」って、カブールが陥落してすぐさま輸入されたわけじゃあるまいし、それまででもあったんじゃないか。アメリカの宣戦布告で戦闘下にあり、ただ商店や市場が開けなかっただけじゃないのか。「治安良好」って、アメリカや北部同盟が攻め込む前もそれなりに治安良好だったんじゃないか。

確かにタリバン政権下では「自由」はなかっただろう。人々は、さまざまなイスラム原理主義的な規則に縛られていただろう。
しかし、96年にタリバンが政権をとってから、アフガンの各都市の治安は、それまでの内戦に比べずっと良くなっていたはずだし、少なくとも、各派が交互に来て略奪や殺害を繰り返すということはなくなっていたのじゃないか。
タリバン政権下の人々の悲惨は、もちろんその強圧的な政策にもあったが、何より国連の制裁と3年前から続いていた大旱魃のせいではなかったか。かつてカンボジアでポル・ポト政権が自国民を大虐殺したというようなことはなかったはずだ。
この政権下でも、多くのNGOや国連機関によって、少しずつ89年のソ連撤退後内戦に明け暮れたアフガンの人々の復興は進められていたのではないか。
少なくともタリバンを追い出すために、アメリカに激しい空爆をしてほしいとは誰も思っていなかったに違いない。
それが、アメリカの仕掛けた戦争で、北部同盟が援助を受け、リベンジを果たした。そしてカブールを陥落させた。これが、そんなに喜ぶべき「解放」だろうか。復興がより進むとでも言うのだろうか。

外国メディアが民衆にインタビューをする。みんな口々にタリバンがいなくなったことを喜ぶ。中に「タリバンのほうがよかった」と言った少年がいた。その少年は、大人たちから叱られた。北部同盟に支配されたらタリバンの悪口を言う、タリバンに支配されたら北部同盟の悪口を言う。これはおよそ政治的ではない一般民衆の知恵だ。どちらでもいい、被害さえ受けなければ、もうこれ以上痛めつけられたくないのだ。少年の言葉は真実だったかもしれない。しかし民衆の願いというものは、支配者からなるべく暴力を受けたくない、ただそれだけなのだ。それが長い戦乱に苦しんだ人間たちの本心なのだ。
かくて少年の言葉は圧殺される。
しかしその言葉こそ重い。果たして民衆の平和に暮らしたいという願いはかなうのだろうか。

否。カブール陥落は、新たなる内戦の始まりであって、私はむしろ暗澹たる気持ちでニュースを眺めていた。
予想通り、北部同盟の各派はそれぞれの主張を始め、支配地域をそれぞれのやり方で征服し、他派と対立を始めた。そこに向かおうとした報道人は山賊と化した武装兵士によって殺害・略奪された。今後各地域で、タリバン寄りとされた人々への弾圧が始まるだろうし、各派は自分たちに都合のいい制度で人々の生活を管理圧迫するだろう。アフガンは分断し、われこそがこの国を治めるのだと、再び人々を恐怖と混乱の日々に陥れるだろう。
逃げのびたタリバンは、逆襲の機会を狙うだろう。それはアフガン国内だけとは限らない。
この責任は誰が取るのか。

今私は、喜ぶ民衆に混じって現地報告していたフリーのジャーナリストたちの安否が気になる。かつてアメリカはソ連侵攻に対してタリバンを支援した。そして今北部同盟を支援し、タリバンを追い詰めた。政治のゲームが、泥沼の内戦を再発させようとしている。おそらく多くの報道人が今後被害に会う。
そして、普通に生活したい多くの市民の新たな悲劇が始まる。

1991年秋。
私はカンボジアの西部、タイの国境に近いシソポンという町にいた。
カンボジアは長い内戦にようやく終止符をうとうとしていた。
1975年、ベトナム戦争が終わろうとしていた頃、カンボジアはアメリカの傀儡政権をポル・ポト派が倒し、「解放」を果たした。ポル・ポト派は外国人をすべて排除し恐怖政治を敷く。1979年、ベトナムとの戦争。ベトナムの後押しでできたヘン・サムリン政府との内戦勃発。以後、シアヌーク派、ソン・サン派はポル・ポト派と三派連合を作り、ヘン・サムリン政権と泥沼の戦いを続けた。同じカンボジア人同士が、16年間も殺しあったのだった。
そして1991年。ようやくパリで停戦合意が結ばれた。

長い戦乱。ようやく訪れようとしている平和への希望。
私は、そんなカンボジアの市民の表情をドキュメントしようと、アンコールワットのあるシェムレアプからタイの国境を目指していた。
長い戦乱は、カンボジアの大地をすっかり破壊していた。国道とは名ばかりのデコボコ道を走った。道路の脇には疲れきった兵隊たちがみすぼらしい小屋で歩哨に立っていた。その裏の畑は地雷だらけで、昨日も牛が死んだと農夫が嘆いていた。ポル・ポト時代に虐殺された人々の頭蓋骨が数千と並ぶ寺には、ようやく僧侶たちが戻ってきていた。村の小学校には屋根も壁もなく、長いこと給料ももらっていない教師が子供たちの前で呆然としていた。
道路のあちこちには、敗走したポル・ポト兵なのか、見捨てられた政府軍の兵士なのか、走ってくる車を止めては金をねだっていた。まるで山賊だった。私たちは、車の窓から小額紙幣をばら撒き、山賊化した兵士の検問を突破して走った。外国のメディアが狙撃に遭ったという噂も聞いていた。
遠くのジャングルでは時たま、迫撃砲の音が響いていた。

それでも、ようやく停戦がやってきた。戦火の中でもたくましく生きてきたカンボジアの農民たちは畑に出、農作物をタイ国境に運ぶ人たちが、水溜まりばかりの国境への道を歩いていた。町では貴金属が売られ、レストランもあったし、市場も活気に満ちていた。
行く先々で私たちは聞いた。
「もうすぐ平和になりますね、どうですか?」
人々は一応にポル・ポト時代の悲劇を語り、早く平和が実現してほしいと、とりあえず停戦合意を喜んでいる様子だった。
シソポンの町からはようやく鉄道も再開され、タイ国境近くに逃げていた難民たちが、汽車の屋根にまで乗り、大挙して首都プノンペンを目指していた。

その町で私たちはある親子の姿を発見した。ドラム缶を乗せた大八車を引く男がいた。男のそばには6,7歳の少女がいた。少女の手は男の手とつながっていた。
少女の父親であるその男は全盲だった。娘が手を引いているのだった。
少女の名はロイちゃんといった。
父親の職業は「水売り」だった。水道のないこの町では、人々は川の水や、井戸水や天水で生活しているのだった。水の問屋とでも言うのだろうか、天水をためたタンクのある場所に行き、ドラム缶いっぱいの水を売ってもらう。その水を、食堂などに売って歩く。それがこの全盲の父親の仕事だった。
ロイちゃんは、父の手を引くだけでなく、ドラム缶から桶に移した水を食堂の水壷に移す作業も手伝っていた。
無口だが、ニコニコと父親を手伝う孝行者だった。父親が受け取るわずかばかりの金を数えるのもロイちゃんの仕事だった。
私たちはいつの間にか、少女を「水汲みロイちゃん」と呼んでいた。
私たちがカメラを向けると、ロイちゃんははにかんだ笑顔を浮かべ、父親の後ろに隠れる。
小学校に行く年齢だが、父親の手伝いで満足に行っていない。父親の手を握り、けなげにがんばるロイちゃん。長い戦乱が終わりロイちゃんの生活も変わるといいなと私たちは思った。
父親にも聞いてみた。
「ようやく戦争も終わりますがどうですか?」
見えない目を私のほうに向けながら彼はこう言った。
「何度も同じようなことを聞きました。でも、まだ私の耳には砲弾の音が聞こえます」
絶望的でもなく、憤慨でもなく、淡々とした口調でそう言った。戦争の音だけを聞いてきたこの男を納得させる材料を私たちは何も持っていなかった。

次の日の朝、ロイちゃんの家を訪ねた。壊れかかったような家に一家は住んでいた。ロイちゃんの下には小さな弟が二人と生まれたばかりの妹がいた。父親の仕事前、ロイちゃんは、家の前の水溜りで食器を洗っていた。家のお手伝いもしっかりやるいい子だった。
無口なロイちゃんだったが私たちは聞いてみた。
「ねえ、ロイちゃんは大きくなったら何になるの?」
消え入りそうな小声でロイちゃんは答えた。たった一言。
「水売り」

もうすぐ平和が来る。その喜びを伝えたい。私たちの取材の目的はそれだった。
私は、ロイちゃんの答えが、「学校の先生」や「お医者さん」かなと予想していた。
浅はかな、平和ボケした国からやってきた取材者の考えそうなことだった。
私は恥じた。そして、ロイちゃんの父親を愛する心に涙した。
そしてまた、長い戦乱がもたらした私たちの想像を超えた現実に立ちすくんだ。
私が安易に想像した将来の夢など、ここの人たちは考えようもなかったのだ。そうした日々を送ってきたのだ。
盲目の父親は「こんな体だけど、誰からも施しを受けずに生きていく」と胸を張った。
誰にも期待などしていないと言っているようだった。
遠くでまた、砲撃の音がした。

その日ロイちゃんは少し元気がなかった。
さよならをしてから通訳が言った。
「あの子は、マラリヤに罹っている。もうすぐ死ぬだろう」と。
この町には病院も薬もなかった。長い戦争が残したものは、一人の少女も救えない現実だった。

アフガンは再び内戦の様相を見せ始めている。
ビンラディンを逮捕または殺害するという目的で仕掛けた戦争が、多くのロイちゃんを生む。
「タリバンのほうがよかった」と言った少年は、この理不尽な戦争を決して忘れないだろう。北部同盟に軍事援助をし、空から大量の爆弾をまき散らかしたアメリカを決して忘れないだろう。パレスチナの子供たちが、友人を殺害した銃弾がアメリカ製であることを忘れないように。彼らはその記憶を抱いて大人になる。
石油利権のために、ビンラディンをダシにして侵攻したアメリカやイギリス、それに便乗したロシアや中国。将来、中央アジアの原油がこの地を通って海に出されるかもしれない。
そのパイプがアフガンの大地を貫通するかもしれない。
そしてそのパイプがテロで爆破されるかもしれない。それは、あの記憶を抱いた者たちの仕業かもしれない。
その時、私は「とにかくテロはいけない」などとは言えない。
むしろ、「テロリストに栄光を」と叫びたい。        

私たちの「退屈な文明」はもう幸福など作り出しはしない。
多くのテロリストを日々作り出しているだけなのだ。
                      了