| 『文明の退屈』 |
10月30日の新聞の片隅にこんな記事があった。
『米製不発弾で子供6人爆死』
ベトナム南部の水田地帯で、鉄くずを集めて換金しようとしていた10歳から13歳の子供たちが、不発弾を解体しようとして被害にあったのだった。
今年2001年。ベトナム戦争終結は1975年。26年の歳月が流れている。
ちょうど10年前の1991年、私はベトナムの中部農村地帯にいた。
その年は湾岸戦争があった年。アメリカが「正義の戦争」を仕掛けた年だった。
「アメリカの正義」とは何か。私は報道写真家石川文洋氏を主人公に、かつての「正義の戦争」ベトナムを検証しようとドキュメンタリー番組を作っていた。
かつて南北を分断した17度線の近くの農村を車で通った時だった。
ジャングルの中から小さな女の子二人が天秤棒を担いでなにやら運んできた。
興味を持った私たちは近づいた。5歳と7歳ぐらいの姉妹に思えた。石川氏が運んでいる竹篭の中身を見た。錆び付いた缶が三つほどあった。手にした。「地雷ですよ、しかも火薬が入っている」
姉妹は、畑で取れた地雷を運んでいるのだった。
戦争が終わってその時で16年たっていた。道端では、不発弾や、軍事施設から解体してきた鉄くずを売る民家があった。そうしなくては生きていけなかった。
あれからさらに10年、戦争がとっくに終わってから生まれた子供たちが、今不発弾で死んでいる。アフガンに爆弾をばら撒いているたった今、ベトナムでアメリカの残した爆弾で子供が死んでいる。
何を説明する必要があるだろう。
これが「アメリカの正義」の正体なのだった。まともな神経の持ち主なら、人種や宗教に関係なく、これを犯罪と呼ばないわけにはいかないだろう。
罪のない民間人がテロで死んだ? その報復だ?
アメリカという国家は今も、民間人を殺し続けているというのに。
なのに今、世界中の国家がこの犯罪を支持している。なぜだろう。
同時多発テロが起こった時、「ざまあ見ろ、いい気味だ」とメールを送ってきた人がいた。
多くの人が死んで「いい気味」はないだろうと思ったが、喝采を叫んだ人はいただろう。
アメリカの罪が裁かれない理不尽さに憤懣を持っている多くの人たちがいただろう。
だが、中でも一番喜んだのは、おそらくブッシュ大統領やラムズフェルド国防長官たちではなかったかと思う。
「よし、これで戦争ができる」と思ったに違いない。事実すぐさま戦争宣言をした。
かつて、真珠湾を日本軍が急襲した時、時のルーズベルトとチャーチルは電話で喜びの声を上げた。「これで日本に対して戦争ができる」
戦争ができるならば、民間人の1万人や2万人の犠牲がなんだ、権力者は常にそう考える。むしろそれを利用して、「愛国心」をあおり、「戦争」という、権力者だけが行使できる快楽に走る。
「これはテロに対する戦争だ、多少の民間人の犠牲もやむをえない」とラムズフェルドは言った。多少とは何人なのか? アメリカ兵なら数十人、アフガン市民なら数万人か?
NY市民なら6000人ぐらいならちょうどいいとでも言うのだろうか。戦争を行うために犠牲になってくれてどうもありがとう、とでも言うのか。
権力を握るということはそういうことだと思うし、そこには情けや倫理は介在しない。
国家を維持するとはそういうことだと思う。
戦争が好きな国がある。いや、国家とは、そもそも戦争をするために人類が作り上げた愚かな制度なのではないかとさえ思える。
自然を相手に生きる人々がいる。集団を作る。収穫場所を巡って争いが起こる。
強い集団は、弱い集団を吸収して、別な敵と戦う。王という存在が生まれ、大きな集団を形成する。王である証は、敵を打ち破ることである。いくつもの王国が出来上がる。王国は敵を作り、敵を打ち破ることでそれを維持する。
戦うことや、収穫や生産することのできない頭でっかちのインテリという生産能力のない奴が、王国の間に入って悪知恵を吹き込み、都市国家というようなものを作り、両方から上がりを得る。
こいつらをいつの間にか政治家と呼ぶようになる。
そうして国家というものが出来上がってくるが、国家を国家たらしめているのは、この無能な輩の自己保身のためであり、そのため、「敵」という存在を作り、「敵」から身を守るために「戦争」という必然を作る。そのときに必ず持ち出されるのが、「わが国の正義」だったり、「国民の利益を守る」だったりする。自存自衛と呼んだ奴もいる。それに乗せられたエンペラーもいる。
国家は常に戦争を必要としている。常に敵を必要としている。
ここにきて、国家というものそれ自体が犯罪なのだと言わざるを得ない。
しきりに敵を探してきた近代国家だったが、20世紀が終わると、共産主義や社会主義経済という敵は消え去ってしまった。違う国家体制が「敵」である時代は終わってしまった。
残されたのは、「ならず者国家」だった。「敵」を求めてうろうろする狼が、従属しない国家を「ならず者」と呼び、戦争に誘導する。
おいそれとそれに乗るわけに行かないから、「ならず者国家」も沈黙する。
さあ困った。国家が国家を敵とする時代は終わりそうだ。
で、今度はテロ組織という奴だ。新しい敵の発見だ。これで新しい戦争ができる。
しかし、テロに対する戦争というのには無理がありやしないか?
テロに対する治安や、テロ撲滅なら分かるが、テロに対する戦争? 戦争というのは外交の最終手段または一つの方法のはずなのに、強引すぎる。でもってタリバンだ。
やはりテロ対策よりも戦争がしたかったのである。
だって、テロ撲滅って秘密裏にやるもんでしょ、本来。
狂っている。ブレアーの眼はサイコそのものだ。プーチンも江沢民も、かつては敵対していた国家たちが、新しい敵に向かって、とりあえず握手という偽善をやっている。
そんなにアフガンがほしいか。なぜだ?
領土か、石油か、市場か。
そのためにとりあえず、アフガンにいる「ならず者たち」を「敵」にしてみる。
同時テロをやってようがやっていまいがもうどうでもいい。
ドイツもフランスも参戦した。日本も参戦しようとしている。
戦争してなくちゃ、国家は退屈なのだ。
近代国家は高度な文明社会を築き上げてきた。文明社会は高度な資本主義に支えられてきた。物を作り、物を売ることで繁栄を作り上げてきた。
もういいじゃないか。もうほしいものなんかないじゃないか。
近代国家は満たされているはずじゃないか。グローバルなんだろ? 国家なんかそろそろやめちゃえばいいじゃないか。そう思うが、人類はまだ国家にしがみつく。
アメリカは幸福に満ちた、近代繁栄国家じゃなかったのか。
いやそうでもないらしい。
高度文明、資本主義社会は、歯止めが利かない。もう買う人がいないのに作り続けるしかない資本主義の宿命。消費するものは食料しかないのに、消費するために新しいものを作り出さなくちゃ生きていけなくなった近代文明。売り続けなくちゃやっていけない高度資本主義。それがドンづまりに来た。自国内ではその欲求不満を解消できなくなった。
エエーイ、戦争だ。破壊だ。ガラガラポンだ。
人類が築き上げてきたのはそうした文明社会だったのだ。
なんともむなしい文明社会。なんとも退屈な文明社会。その中で血迷った近代国家が断末魔をあげている。なんとも迷惑だ。
人類は退屈に向かって走ってきたのだ。その結果が無理やり敵を作って戦争したがる国家を生み出してきたのだ。
だがそうした近代国家のわがまま、その大迷惑な文明社会から取り残された人々がいる。退屈な文明に向かって必死に繁栄国家を目指している悲しい弱小国家もある。
さらにそこから取り残された人々の絶望的な怒りや、国家なんてどうでもいいと思っている人々のささやかな幸せへの希求がある。
希望や目的のない明日。うんざりする現世。それにNOという人々。戦う人々。
この世はまともじゃない、と自然に思う人たちがいる。どこかにいる。
その中の一部の人が反乱を起こす。
これを、私たちの退屈な文明がテロと呼ぶ。
狂っているのはどっちだ?
今起こっているのは「文明の衝突」なんかじゃない。
「文明の退屈」だ。
それが、今日もベトナムの子供を突然死に至らしめ、アフガンの子供をあと数十年苦しめるのだ。
愚かだ。人間はどこまでも愚かだ。
この愚かさに私たちのメディアはどこまで警鐘を鳴らすことができるのだろう。
あまりの無力さにしばらく寝込んでいた私でした。
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