『家に帰ろう』
「家に帰る準備が出来た」と言って、鉄人カル・リプケンが引退を発表した。イチローとリプケンが、3塁ベースでにこやかに話すシーンをこの前見たばかりだった。
「家に帰る」とはどういうことだろう。
かなり古い映画だが、1971年に、俳優のピーター・フォンダが自ら監督した映画に『さすらいのカウボーイ』という傑作がある。ピーター・フォンダはニューシネマの代表作のひとつ『イージー・ライダー』(1968年)でブレイクし、ヒッピームーブメントの代表のように思われていた。『イージー・ライダー』は「書を捨てよ、街に出よう」の映画だった。家に代表される古い価値観の呪縛から逃れ、自由を求めてさすらう映画だった。
しかし、その後で作った『さすらいのカウボーイ』は、長くさすらっていた漂流者(カウボーイ)が、ずっとほったらかしていた妻が待つ我が家に帰る映画だった。大して美人でない妻は、家出のように放浪していたやんちゃなカウボーイを何も言わずに迎えるのだった。
オーバーラップを多用したとてつもなく美しい映画だった。
1970年代は、家を出る時代だった。家に閉じこもり、家族団欒なんていう保守的な価値観から自由になる時代だった。既成の価値の粉砕、革命的生き方の時代。日本赤軍の人たちもまた、日本を脱出して遠くパレスチナに旅立った。
そんな中の『さすらいのカウボーイ』、それは反革命的だったのか?
その頃なのか、ポール・サイモンもまた『家に帰ろう』と歌った。
大貫妙子もまた「その日暮らしはやめて 家に帰ろう 一緒に」(『都会』)と歌った。
街に出て、夜を徹して遊び、狂乱の中に変革を求めた浮かれきったあの時代に「家に帰ろう」と言ったアーティスト達がいたのだった。

カル・リプケンは「子供と家族のために、家に戻る準備が出来た」と言った。
引退して政治家になろうなどとは言わなかった。
ディエゴ・マラドーナもこんなことを言っていた。
「政治家たちは数回私を政治に引き込もうとしたが、私は手を突っ込むようなことはしない。彼らは泥棒だからね」
さすがだてに薬はやっていないと感心した。

この日本では「泥棒」になろうとするものが後を絶たない。プロレス界、相撲界、芸能リポーター、タレント、大学教授、芸能界、使い物にならなくなった人間達が、みんな泥棒になろうとしている。
政治家ってなんだろう。それは生産や娯楽、流通や表現などの人間の活動に従事できない、またはそうした能力のない可哀想な人たちで、「生きることにまっとうな」人たちから「税金」というおこぼれをもらって、何とか生きさせてもらっている卑しい職業ではないのか。
それがいつの間にか「先生」と呼ばれ、人の金を億単位で騙し取って、「国のため」とかいう詭弁で、私利私欲に走る輩になって、それが立派な職業だという幻想を与えられたに過ぎないじゃないか。
誰が幻想を与えたのだろう。
大衆という奴であったり、マスコミという奴であったのだろう。
その大衆は、変化より刺激を求め、「ジュンジュン」などと言って、民主主義も市民社会も知ったことかと、政治の処女のくせして、政治参加しているという幻想の中で、相変わらずワイドショーに釘付けだ。
純一郎がファシストなのではない、純一郎をファシストにしてしまう力がどこからか出てくるのだ。
それをマスコミは、政治に関心が集まるのはいいことだと、しっかりと補完する。
権力側は、そうした政治処女を強姦し、「痛みに耐えて、よくがんばった」とおだてる。
強姦しておいて「よくがんばった」とは何事だ! 「痛みに耐えて」はそのとおりかもしれないが。
今後も「痛みが伴う」とも言っている。俺は尻は貸さねえぞ!

でも強姦されたのに喜んでいる人々がいる。
強姦もまた快楽だから、泥棒で強姦魔になりたい下品な奴らが「この国のため」とか言って我も我もと立候補する。
暗澹たる気持ちになる。7月は茶番劇の月だ。

そんな中「家に帰ろう」という人たちがいる。それがせめてもの救いだ。
家に帰って、妻や子供や、その友人達を大切にしよう。自分に出来る最小単位の人間関係をもう一度見直そう。その先に、地域や社会や、もしかしたら共同体や国なんてものがあるのかもしれないけど、今はそこまで見る必要はない。失った「心からの挨拶」を取り戻そう。一番親しい人に「ありがとう」の一言も素直に言えないのに、何が政治だ。

大貫妙子は『都会』でこんな風に歌っている。

値打ちもない華やかさに包まれ 夜明けまで付き合うと言うの
泡のように増えつづけ あてもない人の洪水
不思議な裏の世界 私はさよならする

その日暮らしはやめて 家に帰ろう 一緒に

天才だ。1970年代に、彼女はすでにこう歌っていたのだ。

カル・リプケンとマラドーナと、ポール・サイモンと大貫妙子に感謝して、
『さすらいのカウボーイ』をもう一度見ようと思っている。
そして次の言葉を忘れないようにしようと思っている。
「過剰な権力に対しては、たとえそれが正しく用いられても反抗しなくてはならない」
(『アマンダ』A・クラヴァン)