『哀しき熱帯』
どうもインドネシアが気になって3週間近く行ってきました。
東西5000キロ以上のインドネシア、1万3700の島、300の民族、2億の人口。
これは一体国なのか。オランダは、インド地方(ネシア)という括りで植民地とし、日本がそれを奪い、スカルノ、スハルトという長期独裁政権が終った今、民主化と地方自治化の中で統合のほころびがではじめています。
独裁体制の終焉と民主化が安定と平和をもたらすという幻想はもろくも崩れ、今インドネシアは第二のユーゴスラビアの様相を見せています。

カリマンタン(ボルネオ島)のサンピトという町では今年の2月に先住民であるダヤック人が、1970年代からの移住政策で渡って来て、すっかりカリマンタンの人となり大手を振っていたマドゥラ人を襲い1000人以上を惨殺した。
ジャカルタでサンピト行きのチケットを買おうと思ったら、みんなが「あんな危ないところへ行くな」とご忠告。
しかし行ってみれば、今はダヤック人しか居なくなったサンピトの町は極めて平和、人々はどこまでも親切で温和で、ニコニコと赤道直下の生活を送っていた。
異様なのは、町の70%を占めていたらしいマドゥラ人の家だけが焼き尽くされ廃墟となっていたこと。その焼け跡で貧しいダヤック人の母子が釘拾いをしていた。
周りのダヤック人の家や、居住民であるジャワ人や華人の家はそのまんま。人々は、移住してきたマドゥラ人が、如何に横暴で、犯罪や殺人、あまつさえ独自の軍隊まで作り、まるで占領者のように振舞ってきたかを語るのでした。
近郊の村から襲撃にやってきたダヤック人の若者が自警団と称し何人か残っていたが、彼らは蛮刀片手に「180人は殺したよ」と実にあっけらかんと、侵略者マドゥラ人退治を自慢する。
ダヤック人の祖先はボルネオ原住民で、首狩り族。今回のマドゥラ人狩りでも、その首をはねた。その野蛮性がスキャンダルな惨劇として伝わった。
インドネシア政府は、そのイメージを消そうと死者の数を発表ごとに少なくしているが、当のダヤック人が1000人以上は殺したといっている。
町のはずれのごみ処理場に行ってみると、焼け付くような熱さの中ですっかり乾燥した頭蓋骨が無造作に転がっていた。
その下に少なくとも3000の遺体が眠っているという。
多くの首は村に持ち帰ったとか。ならば村へと、ハイエナのように私はボルネオのジャングルの奥を目指した。

そこで見たものは、荒涼たる熱帯草原だった。かつては大木だらけの昼なお暗いジャングル地帯だったという。だが、そんな風景は、行けども行けども見当たらない。
開発経済の波。森林伐採という産業の発展。
スハルトファミリーと外国の木材会社が、奥へ奥へと伐採場と製材場を広げ、これほど広いボルネオの密林はほんのわずかになってしまったのだ。ラワンの輸出先は間違いなく日本を筆頭とする先進国。
開発経済の先兵として、移住政策で送り込まれたのがマドゥラ人だったという。彼らは政府系企業の元、森林伐採事業に従事した。力をつけた。
その反面、焼畑と狩猟で暮らしてきた原住民ダヤック人は、豊かな密林から追い出されることになった。
車と小船で二日。密林深く、ダヤック人のルーツがあった。そこには長さ55mという巨大な住居ロングハウスがあった。かつてはこのロングハウスに25家族が共同体を作っていたという。それが今はたったの6家族。電気、水道、ガスもない。それは昔からだからいいだろう。しかし、おまけに自然もなくなった。森がないのでとても暑くなった。
人々は、貨幣経済を求めて出て行った。森林伐採産業に従事しなくては生きていけなくなった。
そこに侵略者マドゥラ人の搾取と圧制があった。
30年間鬱屈がたまった。神聖な森の行事、森の精とともに生きた神秘と呪術性に満ちた生活は消えた。神秘はTシャツのピカチューぐらいしか残ってない。なんでこんな奥地に来てもピカチューなんだ!
みんな金、金、だ。
サンピトの町でマドゥラ人が「ここはマドゥラ人の町にする」と宣言した。それに反抗したダヤック人の家をマドゥラ人は爆破し、5人を殺した。
怒れる森の民はキレた。槍と蛮刀を手に1万人以上が町になだれ込んだ。
首が転がった。いくつもいくつも。
地元の自称ジャーナリストがこっそり売りに来た写真を目にしたとき、ダヤック人の中に失われていなかった野生を見た。そこにはいくつもの生首が写っていた。

殺人に下品も上品もない、と思った。人は人を殺すのだ。文明もまた人を殺すのだ。
日本に帰ってきて、森でもらったダニのせいか全身が痒くて今も苦しんでいる。

スマトラ島の北部。アチェ特別州。
インドネシア国軍と警察が、アチェの独立を叫ぶゲリラ「自由アチェ運動」(GAM)の掃討作戦に乗り出している。
エクソンモービル社が液化天然ガスの採掘を治安悪化のため休業した。日本にも多くのガスが輸出されている。
インドネシア国軍・警察の任務は、あくまで治安維持、GAM制圧。
だが、そこで見たものは、資源豊かなアチェに住む民間人への暴力だった。
国道にはいくつもの検問所を設け、通る車から賄賂を取る。商店街はちょっとの疑いで火を放ち銃を乱射する。物を略奪する。女を強姦する。
GAMが隠れていた村には後でやってきて殲滅作戦を展開する。多くの農民が難民となって逃げ出す。国際機関もNGOもここには居ない。
緑豊かな水田とやしの森の中に銃声。
南ベトナム解放戦線に苦しんだアメリカ兵のようにインドネシア国軍は傍若無人に振舞っている。一般人を恐怖に陥れ独立を阻止しようとしている。
ある町で市街戦があった。
カメラを向けた。国軍兵士がこちらに銃を向けた。現地NGOスタッフを連れ出し殺した国軍だ。許可もなく撮影しているジャーナリストもどきは殺しても構わないと思っているのだろう。
もちろん私は逃げました。逃げながら民家の陰から撮影を続けました。
すると民家の住人が言う。「ここにジャーナリストがいたことが分かったら、後で彼らはここに来て家に火を放つ。だからやめてくれないか」
私はすぐにやめました。

これはどこかに似ている。
ユーゴから独立したいコソボに似ている。インドネシア国軍はユーゴ連邦軍に似ている。
あの時アメリカを代表するNATOは「人道」を名目に、ベオグラード空爆をしたのだった。
同じ事が起こっている。
しかし今、国際社会は誰も人道を言わない。ここから多くの天然ガスを輸入している日本も何も言わない。
なぜだ。

2億も人口がいて、首狩り族もいて、何だか民度が低いように思えるからか。
国家に「人道」なんてない。国益はあっても。

穏健派の団体の代表が言った。「なぜこれほどまでに人権が踏みにじられているのに国際社会は目を向けてくれなのか」と。

ジャカルタから日本行きの深夜便に乗った。
機内には、髪の色を変えること以外にすることのない若者達が、真っ黒な日焼けを自慢するように呆けた顔でたくさん乗っていた。バリ島の帰り道らしい。
日本の1万円が10倍以上の価値をもった驚きと興奮で、それぐらいにしか感動できなくなった己を鏡に映すことはあるのだろうか。日本に帰ってマジックマッシュルームの体験を話すことが旅の土産なのだろう、不景気を嘆きながら。
マルク諸島で二つの宗教が殺し合いをやっていることも、イリアンジャヤで独立をめぐって戦争が起こりつつあることも、アチェの難民も、サンピトの大量殺戮も彼らは知らないだろう。彼らにとってバリだけがインドネシアだ。
同じ年齢の若者達が、今日もジャカルタでこぶしを上げて権力と戦っていることもおそらく知らないだろう。
政治を語れとは言わない。
くだらない消費にしか興味をもてなくなった哀しき日本人を見つめるインドネシア人のほうが人間らしくきらきらと輝いていたと言いたいのだ。
茶髪と無精ヒゲの日本の若者の顔はどれの鑑賞に堪えられない退屈な顔ばかりだった。

帰ってきたら小泉内閣の支持率が80%を超えていた。
自民党の選挙を国民の選挙のように宣伝したマスコミの功績だろう。
気持ちが悪い。
ふと、ヒットラーが政権をとったときの支持率はどれくらいだったのだろうと思った。

痒い。痒い。ひたすら痒い。
熱帯が、今私の中で発熱している。

2001年5月29日