| 『みんな『国家』を愛してる』 |
暇だったので、重信房子の初公判に行ってきました。
日本赤軍最高幹部、国際テロリスト、娘さんのメイさんが日本国籍を取って来日(帰国って言うのかな?)など、「重信」をめぐる記号はマスコミを騒がしていますが、一体彼女は何をしたのか、何で日本で裁かれようとしているのか。彼女の犯罪とは何なのか。もう一つ伝わってきません。
若い友人が、「後藤さん、赤軍て、ロシア革命でしょ? それがどう関係あるの?」という具合。
時代が大錯乱。でも気持ちはわかる。彼にとっては生まれる前の事件だもの。
重信が裁かれようとしている容疑は、1974年のオランダ・ハーグのフランス大使館占拠における「殺人未遂容疑」(でも実行犯の中にいなかったんですがね)と、75年の旅券不正取得(仲間のパスポートを不正に取得した容疑)、平成9年から平成12年に自身が日本への出入国に際し不正パスポートを使った容疑。このうち分かりやすいのは最近の不正パスポートだけど、それじゃたいしたことないじゃん、てことになる。
何が大変な犯罪人なのか。ほとんどの人がさっぱり分かっていない。
重信に関する記事を書く記者も、テレビで報じるディレクターもよく分かっていない。
そも日本赤軍とは何か。このあたり興味のある人は、河出書房新社から「赤軍」というムックが出ているからそれを読むといいけど、僕としては、例え「ハーグ事件」を起こしたとしても(重信もそれを作戦として関与したことは認めている)、それをどうして、どんな根拠で日本の司法が裁けるのか、それを見てみたいと思ったので出かけたのでした。
今でも、日本の司法で裁けるのは、文書偽造、旅券法違反だけじゃないかと僕は思っています。だってパレスチナは、民族国家として、戦争してるんですぜ。そこに義勇兵として参加し、パレスチナの組織の作戦に従事したのが、事の善悪はともかく、何で日本で裁かれるのよ。例えば、日本人の外人部隊志望の青年がいて、フランス外人部隊に入ってアフリカに派遣されて、戦闘で「敵」を撃ったとして、そりゃ人殺しはよくないっていう道徳的判断はあるかもしれないが、それを日本の司法で裁ける? って事です。関係ないじゃん、日本の法律、ってこと。
そしてまた、今もパレスチナでは、インティファーダという闘争が繰り広げられているのに、何で、そこで共に戦っていたはずの彼女が日本に帰ってきたのか(もっともこっそり行き来で、捕まるつもりはなかったと思うけど)、それも知りたいことのひとつでした。
しかし、すごい人。発表によると59人の傍聴席に350人の人が集まっていました。予想はしていたけど、こんなに関心が集まるそのホントのところはよく分かりません。大方のマスコミは、娘メイさんが美人で、母親の裁判を傍聴する、画になるなあって事でしょう。
で、こういうときは抽選で、なんとラッキーにも当たりましたので傍聴できたというわけです。
初公判は、検察の起訴状朗読、弁護人の釈明申請、被告人意見陳述、検察冒頭陳述の流れでしたが、検察のチョンボもあって途中で終わりました。
チョンボについてどの報道もされてないので、簡単に言うと、検察は「冒陳」で、裁判において、これから、こういうことを証明したいと説明するわけですが、その根拠となるのは、様様な証拠があるからなのであって、その証拠は裁判所に開示されていなくてはなりません。実証するための根拠としての証拠がないのに、証明物語を延々と語っても、それは検察の「作り話」にしかならない。弁護人が「冒陳」に異議を申し立てました。「証拠が開示されていないの、証明するって言っても根拠がない」というわけで、裁判長も「今回そこ削除っていうことで、次回また続きにしましょう」と判断を下しました。検察大チョンボ。
いくつかの容疑で起訴されているのでこれから長い裁判が続くのでしょうが、この日も休廷なしで4時間。疲れました。
傍聴席には、新右翼といわれる鈴木邦男さんや、作家の宮崎学さん、元連合赤軍の植垣康博さんらがいて、ちょっとしたあの時代の同窓会の雰囲気もありました。
注目は重信被告本人による意見陳述です。これは本人が言ったように全部朗読するとゆうに2時間は越えるものなので、一部割愛しながら朗読。それでも1時間半ぐらいありました。新聞にも報道されましたが、要旨は、これまでの反省や謝罪、日本赤軍の解散、そして新出発が語られました。「武装闘争は日本社会に受け入れられず間違っていた」「関係ない人や犠牲になった人や迷惑をかけた人に謝罪します」などです。
世界革命を目指してやってきたが、武力やテロでは世界は変わらない。パレスチナでの活動は否定しないが、世の中に受け入れられなかったのは反省すべきだ。だから考え方を変えました、というわけです。
そしてこれからは合法的な活動を通して「日本社会に根を下ろし、友好と多民族共生の国際貢献を求めるところからはじめたい」「日本社会を良くするために、日本の友達と新しい出発をしたい」「日本が好きです。日本がよりよくなって欲しい」と、公然活動をする意思を示して締めくくりました。
「あれ? 普通じゃん。 自民党だって社民党だって、多くの政治家が言ってることと同じじゃん」というのが僕の感想でした。
そして「なぜ、こうなるの?」というのが率直な疑問でした。
昨年の拘留理由開示を求める法廷での意見書でも「1票を投じる政治からでも日本は変わるかもしれません。私は平和を求め、日本を変えていきたい」と彼女は言っています。
選挙に行って、日本の政治を変えよう。選挙管理委員会の宣伝みたい。
僕の疑問は、重信が考え方を変えた、それに対するなぜ、ではありません。パレスチナの地でいつ命を奪われるか分からない緊張しつづけた30年間、それは彼女しか分からない体験だし、そこから離れ生き直そうとすること、それは誰にも否定できません。それもいい。
しかし、そのとき、なぜ、「日本を変えていきたい」という発想になるのでしょうか。
なぜ「日本という国を良くしたい」ということになるのでしょうか。それが不思議でならないのです。
唐突ですが、今自民党の総裁選が結末を迎えています。小泉になりました。どの候補も「日本の国をよくするため」とか言っていた。僕は、政治家というのは、税金に群がったハエとしか思っていないので、一切そうした詭弁は信じていません。僕は差別主義者で、もっとも差別しているのが政治家という人種です。彼らは本来はいなくていい人種ですが、人類はその必要悪を排除するまでの知恵をまだ手に入れていない、というのが僕の認識です。暴論ですが。
人は、「国をよくする、よくしたい」と言った途端に胡散臭い、というのが僕の考えです。少なくとも僕は「国をよくしたい」などと思ったことはありませんし、国家という単位で考える人間に大きな不信感を持っています。。
「日本が好きだ」「日本語を話す国に生まれた自分が好きだ」「日本という国にある自然や文化が好きだ」「日本語を話す人種として自分なりの誇りを持っている」
それは全然かまわない。私達は誰でもたまたまその「国」に生まれたに過ぎません。国家なんてその程度です。
だから、どこの誰にだって「日本という国を変える」とか、「よくしたい」とか余計なことは言ってもらいたくない。余計なお世話だ。そんな大言壮語はやめてもらいたい。
胡散臭さの例をひとつ。
評論家の田原総一郎さんがこんなことを言っています。
「純粋客観的ではないという事です。もっと言うと、この国をよくしたいと、心底思っているんです。たぶんジャーナリストは、この国をよくしたいなんて思っちゃいけない。僕は一、二年前から変わりました。」
そして最近の『週刊ポスト』で「僕は今の日本は昭和の初期に似ていると思う。あの頃も閉塞状況という言葉が非常によく使われました。それを突破するのに何が必要かといえば政治のロマンで、当時はそれが満州だった」とまで言ってます。
満州侵略が、ロマンとなる。「国家」を考えるとそうなる見本です。
どうしたんですか田原さん。あなたはテレビに巣食う、スポンサーの奴隷に過ぎないじゃないですか。国会議員が財界の妾と同じような意味で。本気で議論しなくちゃいけないと思っているなら「はいここでCM止めて議論続けましょう」と一度でも言ったらどうですか。
「新しい教科書を作る会」だって、日本の教育を憂い、「このままじゃ日本という国が駄目になる。日本という国に誇りを持てる国家に変えなくちゃ」という発想です。小林よしのりさんのような「おぼっちゃま」のような優れた漫画家が、忙しいのにそんな事考えちゃいけない、というのが僕の考えです。何でそうなるのという感じです。そんな事より、電車で席を譲らない若者に「ちょっとこのお年寄りに席譲ってあげたら」と優しく声をかけたらどうですか。それが「公」って事でしょ、結局あんたの言ってることは、って感じです。
何であんたらが「日本をよくしたい」なんて考えるのかさっぱり分からない。
余計なお世話なのよ。本当に胡散臭い。
というより、私達は誰でもひとりの矛盾とエゴに満ちた人間に過ぎないということを考えたい。
国家なんて発想の前に、自分にはどれだけの友人がいて、それは国家とか民族とか、国境とかに関係がなくて、信頼しあっていけるのか、そのことを考えたい。
ひとつまたはいくつかの民族が、仕方なく「国家」という枠組みで生きていかなくちゃならない。嫌だけど、出来るだけそんな枠は取っ払いたい。
僕の周りにはそうした友人達がいます。彼らは、重信房子が「普通のこと」を言っている間に、軽やかに国境を超え、エリトリアとか、パレスチナとか、東ティモールとか、いや日本の街角でも「国家なんてクソ食らえ、友人こそ宝だ」と、たくましく生きています。
重信房子が、「これからは娘や友人達とともに、人間の幸せについて考え生きていきたいと思う」とシンプルに言ってくれたらどんなによかったろうと思うのです。
またまた、ハンナ・アーレンの言葉を思い出します。
「一般的に言って政治における『心』の役割を、私は全面的に疑っています」
「私はこれまで私の人生で一度もどんな民族なるものもどんな共同体も『愛し』たことがありません。ドイツ人というもの、フランス人というもの、アメリカ人というもの、労働者階級というもの、この種のもの全てそうです。私は私の友人『しか』愛しません。私が身をもって知っている愛も、私が信をおく愛も、人たちへの愛です」
今、右も左も中間もナショナリストだらけです。この人たちは全て胡散臭い。
僕の今の関心は、COCCOの活動中止宣言なのです。 |
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