| 『K君への手紙 〜臆病者の檻〜』 |
昨年2000年の元旦。私はテレビ朝日のスタジオにいた。『ミレニアム特番』とかのVTR部分を担当したせいで、スタジオにも立ち会っていた。
私が担当したのは視聴者からのアンケートを元に、21世紀に残したいテレビの映像ベスト100というものだった。100の、事件や、ドラマ、人気番組、歌などジャンルを問わず、ランキングにしたがって短いVTRに編集、ナレーションを書き、録音した。
その日私は、なんとも言い様のない疲労感の中にいた。作ったものに納得がいかなかったからだ。
この仕事を私に振ってくれたのは、尊敬するAプロデューサーだった。彼は元報道の人間で、かつて私は彼のもとでいくつか仕事をした。『後藤さんは年齢に似合わず、若々しく瑞々しい映像を作ってくれる』と過大評価された。ある時は私の作った番組に対して批判が出た時『あなたは、後藤さんの努力も知らないで言っている。失礼だ』と過剰な弁護をしてもらったこともある。
そのAさんからの依頼だ。私は、「21世紀に残すテレビの映像」という特集に、密かに情熱を持って望んだ。
しかし、作業は難航した。というよりも、アンケートの仕方、ランキングの決め方にかなりいい加減さが目立った。なぜか海外のニュースは入らなかった。アポロもケネディ暗殺も、湾岸戦争も。こうした事件映像こそ、テレビというメディアが今世紀、茶の間にいち早く送った記憶に残る映像ではなかったか。
またテレビドラマや歌が数多くランキングされていて、それらの多くは他局のものだった。
力のないテレビ朝日は他局のドラマなどの素材を十分集められなかった。
「じゃあスティール一枚でいいですから、適当に」「ああそれね、今日パソコンで投票して、ランキング外に落としちゃいますから心配しないで」
はじめの企画意図は何処へいったのか。100人もの集団が分担して作業を進める日常の中で、誰が、何の為にこの番組をやっているかは、置き去りにされていった。
だが、テレビとはそうしたものだった。一度動き出した、それも多くのスタッフと予算を持ったプロジェクトが、途中で本質に気付いて変更されるなんて事は滅多になかった。
私の情熱は空回りした。「本気になる必要ないですから」「楽しく、うまくまとまればいいんです」「バラエティですから」
20世紀とはなんだったのか。その中で後世に伝えるべき映像とは何か。
そんな青臭い創作意欲は、作業が始まると、関係なかった。とにかく間に合わせることが至上命令となっていた。そのためスタッフは徹夜続きだった。
これがテレビだった。もう20年以上この世界にいる私もよく知っていた。
ただ私は、そこからできるだけ距離をおこうとして、テレビで生きてきたのだった。
だからその日私は、徹夜開けの疲労感の他になんともやりきれない感情を持ってスタジオにいたのであった。しかし、私はやらなければよかったとは思っていなかった。それなりに楽しい作業だったし、為にもなった。たくさんの映像を見たことも有益だった。後は小宮悦子さんが回すスタジオを楽しく見たいと思っていた。
だが、そんな私の気持ちはその後消し飛んだ。
その日私は大した役目もなかった。プロデューサーの一人が、タレントさんの出し入れをして欲しいといったのでそれに徹しようとしていた。私は局育ちでないし、スタジオものはやったことが少ないので勝手は分からないが、それくらいならできるだろうと思った。
ゲストに懐かしい青島幸男さんがいた。知事を辞めてタレントさんの顔になっていた。控え室で、思い出話をした。そしてゲストとして選んだ「21世紀に残したい映像」について話し合った。青島さんはアポロの月面着陸だった。意外だったが、納得した。私は安田講堂だと思っていた。議員会館の部屋には若き青島さんが安田講堂で取材する姿が大きく引き伸ばされて張ってあったことを私は憶えていたからだ。
オンエアーが始まった。途中から飛び込みのゲストもいる。何しろ元旦だ。
「今玄関に着いたから、迎えて、エレベーターに載せてスタジオまで連れてきて」
私は迎えに走った。玄関からタレント担当のプロデューサーやお付きやマネージャーや、メイクや衣装さんに囲まれてタレントYは忙しそうに走ってきた。
エレベーターの中で私は軽く今の進行状況を話した。Yも彼女なりの「21世紀に残したい映像」を選んでいた。だが彼女は、さも面倒くさそうに「ネ、私の選んだのって何だっけ?」と聞いた。
エレベーターが開き、彼女はスタジオに向かった。その後ろから、ゾロゾロと私を含むその他大勢が従った。スタジオの隅で、音声さんの女性がマイクを仕込もうとすると、その手を払い「自分でやるからいいわよ」と不機嫌そうに言った。
私はこれを見て、「ああ、この仕事、やっぱりやらなければよかったな」と思った。疲れはどっと後悔に変わった。
私はテレビの中にあらぬ期待を持っている自分の馬鹿さ加減を今更ながらに感じた。21世紀に残したい映像をYが真剣に考えているはずないじゃないか。何を期待してるんだ俺は。これは当然の光景じゃないか。その片隅でお前は20年も生きてきたんじゃないか。
彼女は自分の知っている、お追従してくれる顔見知りをあたりに探した。
K君。君がそこにいた。「やあYチャン」
彼女もほっとしたようだった。君は彼女に軽く耳打ちした。軽いアドバイスと言ったところか。構成作家としての命令でもなく、ヨイショでもなく、有益な情報でもなく、勿論台詞や演技についてでもなく、それはテレビという世界、芸能界という世界のちょっとした儀式のようだった。「じゃあ行ってくる」という感じで彼女はライトの下に入っていった。
メイン構成作家としての君の役目はそういうことだった。それはきわめて重要な役目だった。君の一言が、わがままなタレントの心を溶きほぐし、周りのプロデューサーたちが遠慮している彼女に対して行動を促すのだった。
私は「さすがだなK先生」と思った。
同時に、君と私の距離を思った。同じテレビの世界にいて、片やもう巨匠の粋にある大構成作家先生の君と、相変わらず青臭い理想論で、視聴率とはおよそ関係のないマイナーな番組で糊口をしのいでいる私との距離を思った。
勿論、だからといって私はひがんでいるわけではない。君だって自分を偉いと思っているはずはない。君は、少なくともそんな傲慢な作家先生とは違う。それを私は知っている。
私はただ、この世界に入る前、まだ何をして生きていくかも分からなかったあの20代前半の頃、偶然知り合った私たちの、今日の距離について、感慨深く思ったのだった。
K君。きみは気配りの人だ。若い頃からそうだったね。
私たちはいつ知り合ったのだろう。ごめん、記憶がすっかり薄れてしまっているよ。
自主制作映画なんてものをやっていた私が、食えずに、それでもいっちょ前に映像作家を気取って映画論や、文学論を安酒場でがなり立てている時、君は、年齢的には少し私の後輩である君は、私たちと知り合ったんだっけ。
その頃なぜか、私たちは若きフリーライターたちとしてよく集まっていた。君は学生の頃からテレビでアルバイトしてたんだっけ。ひょうきんで物まねがうまくて、芸人で、顔が広くて、誰とでも仲良くなれて、とても便利で、そのくせリーダーにはならず、そっと相談事があると親切に乗ってやって、若いのに年上にはなぜだか信頼があって、マメで、何より気配りが出来て、自分はちょっと脇でニコニコしながら見ている。
そんな君の才能は、テレビという世界にぴったりだったんだろうね。NHKなんかにも顔が広くて、君の紹介でNHKのプロデューサーに会ったこともあったっけ。
さりげなく女の子を紹介してくれたこともあったね。
君は気配りの人だった。
やがて、新宿にたむろするという季節も終わり、私たちはそれぞれ大人の世界に入っていった。君はテレビの構成作家というポジションでさまざまな番組に関わった。持ち前の顔の広さ、オールマイティの好奇心と知識、テレビという世界は、君のような人間にぴったりの世界だった。気の効いたアイデア、多くのタレントを知っていて的確な人選ができ、日々の雑学に長けていて、笑いという落としどころを熟知している。
バラエティ番組が得意な君とそれがどうしても出来ない私とは、同じ世界にいながらほとんど仕事をすることはなかった。
私は、自分の作る番組はほとんど自分で書いていたし、ナレーションの一字一句まで自分で書かなくては気がすまなかった。そして何より、テレビの構成作家という奴を軽蔑していた。私のきわめて狭い構成作家との付き合いがそうさせたのかもしれないが、私は構成作家を「ああせい、こうせい、作家」といって馬鹿にしてきた。「書けなくて何が作家だ」とか「ロケも行かずに何がわかるんだ」とか、ひどい時には「テレビの寄生虫だ」と傲慢に言い放って恥じることがなかった。
しかし私は知っている。テレビとはそういうものなのだ。テレビとは作家になれない作家が食えて、監督になれない監督が食えて、ジャーナリストになれないジャーナリストが食える、弱者のメディアなのだ。そういう人たちを生きのびさせてくれる場所なのだ。
そうテレビは弱者のメディアだ。臆病者たちの檻だ。
テレビとは虚業にしか従事できないふとどきな輩を生き延びさせるための装置なのだ。それは権力にとってこの上なく扱いやすい装置なのである。
そこには真の意味で生産に従事できない弱者たちが、権力から与えられた、一般社会から見れば不当に高い報酬で自己防衛の共同体を作っている。その共同体は、一皮向けば消費社会に身を捧げた、スポンサーという名の権力の奴隷となった集団と変わりはない。
テレビという名の箱の中だけの共同体。
奴隷という真実を直視したくがないために、共同体の住人たちは美しく着飾り、なけなしの自尊心を娯楽とか報道とかの衣装を借りて、共同体内の人間たちだけで、まるで動物園の檻の中の動物のように偽社会を作り上げている。
それは、権力によって作られた安全装置だということを気付かせない、巧妙で甘美な、選ばれた者たち、恵まれた者たちの楽園だ。
テレビという箱の中だけで、何を言おうが、どんな反権力の姿勢を見せようが、CMを守り、時間枠を守っている限り許される。だから権力は、そこそこの弱者に美味しい思いをさせて飼っている。いいですね、そこそこの役者、そこそこの作家、そこそこのジャーナリスト、そこそこのインテリ…。
だが一歩その箱を逸脱して、直接現実と結びついたり、社会に作用したりした途端、その動物はあっけなく扼殺されるだろう。
やがて見世物小屋の中の奇形人間たちは、自分と社会との回路を見失う。
満員電車に乗ることもなく、路上の嘆きを聞くこともなく、テレビ局が指し回したハイヤーの窓から虚ろに社会の偽善を眺めやり、正義感や反権力の意志や、嘆息を吐いてみせる。
だから、テレビの檻の中の住人は、臆病者だ。一歩も外に出たがらない。
自分の無力さや、自分の無能力さはここにいる限り、美味しいご馳走とともに才能として保証される。弱いもの同士がかばいあいながら補完しあっている。
私は、卑怯者の私は、テレビという世界にいながらずっとこんなことを思ってきた。
そうでない人もいるのを知っていながら、そうでない人に助けられながら。
そうでない構成作家や、タレントや、ディレクターやプロデューサーが居ることを知っていながら、負け犬の遠吠えのように突っ張ってきた。当然嫌われた。だからYで落胆もした。
だったら止めちゃえよ。という言葉をいつも背中に聞きながら、そう出来なかった。
それでも何かできると、大してない才能を頑なに信じながら。
私は今日まで、いや今現在も暴言を吐きながらもテレビに寄生している自分自身をこそ嘲笑うべきなのだろう。
テレビを知っていながら、それを分かっていながらそこに、気配りと人のよさで地位を築いた君の潔さに較べたら、恥ずかしい限りだ。
同じ臆病者なのに、バラエティをやっている君を臆病者とせせら笑いながら距離を置いてきた。K君、そんな私を許して欲しい。
君は私の青臭い意見を、十分に知っていた。それでも、軽く、しなやかに、人を傷つけることなく、人の波に乗って、テレビの世界で生きてきた。君は自分の苦しみは人に見せなかった。私のように見苦しくなかった。常にいい人だった。謙虚だった。「後藤さんの言う通りですよ。でもそんな世界でしか生きられない人間もいるんですよ。その中でも才能を発揮できる人はいるんですよ。だから許してやってくださいよ」
君はいつもそう言っているようだった。たまに局で会うと、私より数段テレビ界で顔を知られている実力者の君は、あの新宿時代の謙虚でひょうきんな若者だった時のように、照れくさそうに、自分の仕事を卑下して見せた。
そんな君が誰からも好かれていることを私は知っていた。
だけど私はいつも「だからダメなんだよ」というような態度に終始した。正直言って、イライラした。「おいそのままでいいのか?」といつも心の中で思っていた。偉そうに。
なのに君は、滅多に会わないとはいえ、そんな傲慢な私をいつも立ててくれた。
「ミレニアム2000特番」にはじめて行った時、台本の表紙に構成作家の筆頭として君の名前が書いてあった。局の若いスタッフは君を先生と呼んでいた。
私は皮肉交じりに言った。「K先生って書くの? もう偉いから書かないんじゃないの」
いつまでたっても、そんな風にしか君をからかわない私を、君はずっと苦々しく思ってきたことだろうね。
でもスタッフルームに来た君は、少しも偉ぶらずに、若いスタッフに「後藤さんとできるなんて幸せなんだぞ」と煙に巻くようなことを言った。
やはり気配りの君だった。
君は何度も私に言った。「今度一度やりましょうよ」「今度な」
私の返事はいつも気のない物だった。君がどんなに売れっ子かを知っていた。
私の、3ヶ月もかかる地味な番組に君のような売れっ子が時間を割けるはずはないと思っていた。君を信用していなかった。
悔しい思いをさせただろうね。恨んだろうね。ごめんなさい。
昨年、私はフリーになった。だが私の傲慢さは変わらなかった。
君が創設からメンバーの古舘プロジェクトに所属させてもらった。20代の頃から盟友だった佐藤社長は、「やっと来たか」と歓迎してくれた。
君とはなぜか事務所で会わなかった。私も照れがあった。
「ずるいよ後藤さん」と言われそうだった。それが恐かった。なんだか長い間、君ばかりに苦労をかけてひょっと帰ってきた、ずるい兄貴のような後ろめたさがあった。
昨年佐々木主浩を取材した。名刺を出すと、佐々木が「Kさんに宜しく言ってくださいよ」と言った。「お世話になってるんですよ」
君の顔の広さ、君が気配りの天才であることを改めて知った。
K君。君はテレビの世界で、私のような精神の若造より、堅実な大人として生きてきた。
古舘プロの女性陣の君に対する尊敬を私は知っている。
君がいつか、何かを、と思ってきたことを私は知っている。
僭越ながら、私はやっと君と四つに組んで、金のためでなく、テレビ局のためでなく、いつか新宿のネオンの中でギラギラと目を輝かせて、『なんだかわからないけどやってやるぞ』
と叫んだ、本当に自分達のための何かが、今できると思っていた。
昨年の12月29日。君を病床に訪ねた。すっかり痩せた君は、「春だな春、春に復帰だな」と明るく言い放った。術後の経過が良くないのか、時々痛みが走ると、自分に言い聞かせるように「負けないぞ!頑張るぞ!」と強く呟いた。そして、話題が途切れた私たちが退屈するといけないと思ってギャグを飛ばそうとした。K君、君は何処までも気配りの人だった。
「春まで休めよ、春が来たら一緒に何かやろうな」
私が言えたのはせいぜいそれくらいだった。
なのにK君。それがもうできないと今日聞いた。
遅かった。私の餓鬼のようなツッパリが君との初めての夢を見させてはくれなかった。
私の責任だ。君に対する愛は遅かった。申し訳ない。
君の寛容さに心から感謝する。
『後藤さんまだ分かってないな。俺を誤解してるって。俺は書けるって』
誤解しつづけた私を許して欲しい。
K君。 腰山一生君。君は今日永眠した。
もう気配りで疲れることは必要ないよ。 友よ、安らかに。2001年1月4日。 |
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