『メディアが権力を補完する時 〜なぜ「COOL HAND」なのか〜』
夜の教会に一人の男が座っている。男は薄ら笑いを浮かべ、キリスト像を見つめている。
「誰かいるかい? 神様はいるかい? 少し話をしようじゃないか。俺は悪党だ。戦争で人を殺し、酒を飲み、公共物破損だ。あまり物を頼めたガラじゃないが、それにしてもずいぶん冷たいな。あんたはまるで負け札ばかりつかませている。中でも外でも。
ルールだ。規則だ。看守だと。
あんたが俺を作ったんだろ? どうすればいい?
よく聞いてくれ。俺も最初は強かった。でもそろそろ終わりだ。
いつ終わる?
教えてくれ。どうすればいい?
オーライ。膝をついてたずねるよ。
…やっぱりな。俺は仕方がないか。食えん男だ。自分で道を探すか…」

この台詞を聞いてすぐに映画のタイトルを思いついたら、あなたは相当な映画通だ。
これは僕の大好きな、おそらく生涯のベスト5に入る映画『暴力脱獄』のポール・ニューマンの台詞だ。原題は『COOL HAND  LUKE』。何回も脱獄を繰り返すポール・ニューマンが演じた主人公の名前がLUKEである。で、あだ名がCOOL HAND。
僕のこの通信のタイトルもこの映画から取っている。「COOL HAND」とはポーカーなどでのハッタリのこと。ハッタリ野郎LUKEってところか。
もし見ていないならすぐにでも見ていただきたいが、この映画の魅力は、ポールニューマン演じるLUKEの笑顔にある。
ラスト。いくつものLUKEの笑顔がモンタージュされる。その笑顔が訴えてくるものは、永遠の分からず屋、決して権力に屈することのない皮肉屋LUKEの潔い心意気だ。
ルールを蹴飛ばし、規則を無視し、看守を嘲う。何という痛快な生き方。
この映画に出会ったのはいつだったか。アメリカ映画らしくない実に実存的な映画で、以来、スチュアート・ローゼンバーグは大好きな監督の一人になった。
今思うと、これはユダヤ人の気持ちをハードボイルドに託した映画だったのかしら。
しかし僕は、この映画から違った影響を受けた。LUKEとまでは行かないまでも、決して権力には組しない生き方。それがあれば笑って死ねる。そうありたいと。
それは僕の仕事の中にもわずかながら影響を与えてきたように思う。

権力に組しない。なんと難しい生き方。しかし、メディアに関わる以上それは最低限の矜持のように思える。
それなのに今のメディア。なんとまあ権力の補完装置に成り下がったものか。
『バトル・ロワイヤル』。これまた永遠の反逆児、深作欣二の傑作。と僕は思う。
これに対して民主党の馬鹿議員が難癖をつけた。殺人を扱ったこの映画が青少年に悪い影響を与える。よって、制限つき。このような映画には罰則を設けるべきだとも吠えた。
これに対して、メディアはどうしたか。表現に対する権力の介入にどう敏感に反応したか。知る限りにおいて皆無。あまりに鈍感。
『ニュースステーション』で久米宏が「僕なら、見せないといわれればすぐ見に行くね」と一言皮肉ったくらいだった。
『スクープ21』でも取り上げた。深作、石井議員、両方を取り上げた。公平を期した。
そして、「アメリカでは青少年に与える影響を考えて、メディア側が、さまざまな規制を設けている」と、アメリカの先進国ぶりを持ち上げた。
そして、それは、権力の表現への介入に断固として反対するという立場を結果として弱めた。そうした怒りは感じられず対岸の火事のように語られた。
『バトル・ロワイヤル』が傑作でなく、駄作だとしても、見せる見せないを権力にゆだねること事態がメディア側の敗北であることに少しの自覚もなかった。
メディア側が自浄化を自らに課すことと、権力が規制法によって表現の自由を奪うことは、天と地の差があるのに、それを一緒くたにした。
どうしたことか。どうして断固として規制に反対の立場を表明できなかったのか。
これは自分達は表現をしていないという諦めの表明か。自分達のメディアは権力に屈するという敗北宣言か。
こうした姿勢が、権力によっていくつもの規制法を作らせていることにいつ気がつくのか。
そのテレビ朝日が、頼まれてもいないのに、ネプチューンの『ネプ投げ』を自己規制して終わらせてしまった。
「『覗き』や女性差別の肯定に繋がる」からと自己判断し、「放送と青少年に関する委員会」とやらの自己規制だったという。しかしそれは権力へのおもねり以外になんだったというのか。
間違えちゃいけない。そもテレビとは、メディアとは、ジャーナリズムとは、『覗き』そのものじゃないのか。ジャーナリストとは『覗き屋』という意味ではないのか。テレビの世界ほど女性差別が横行している場所はないんじゃないか。
何たる欺瞞。
女のスカートの中を見たいという欲望、芸能人の私生活を覗きたいという欲望、事件事故という人の不幸を見たいという欲望、その欲望に応えるんですよ、それが視聴率に繋がるのですよ、と、人の迷惑考えずに、報道という美名の中でしゃにむにやってきたのがテレビというメディアではなかったのか。
そもそうした卑しい仕事がテレビの仕事ではないか。
卑しいが、そこに幾ばくかの本質を求め、それでも決して権力におもねることなく、自ら敗北宣言など出さずに、権力を監視し、時にはそれを撃つ無頼な輩の集まりがジャーナリズムというものではなかったのか。
そこに『品位』なんてものはないのがテレビではなかったか。

ストーカー規制法ができた。警察は通報があれば、ある女性に恋愛感情を持ち付きまとっている男を尋問、監視、あまつさえ逮捕までできるという法律である。好きな人ができ、声がかけられず、うじうじしながら遠くから眺めているという純情青年はこれで逮捕できることになった。考えてみればその後のほうが恐い。
警察は忙しくなった。テレビが、ストーカー犯罪を報道し続けた結果とも言えよう。
警察機構の対応の遅れを告発しつづけた成果とも言えよう。
でもそれでよかったのか。個別の事件検証が、総体としての警察権力の全体化を招いたことが良かったのか。
結果として、警察権力を強化したことが良かったのだろうか。
警察権力の腐敗や堕落、隠蔽体質、それを暴くことは確かに評価されていい。
しかし同時にそれが、警察権力を強化することに繋がったとしたら、それはメディア側の誤算と考えなければいけないのではないか。そのことのケツを拭かなくてはいけないのではないか。
報道が、ストーカー犯罪が増えるのは、そして痛ましい事件が多発するのは、警察権力が弱いからだという風にリードしたとしたら、それはもはや、マスコミが権力の補完装置になっているということなのではないか。
今テレビでは犯罪報道が花盛りである。しかし犯罪報道が権力装置の強化に繋がるかどうか、それを慎重に考えて犯罪報道をしている番組がいくつあるだろうか。
むしろ、猟奇的、覗き見的に、刹那主義で報道しているとしか思えない。ならば『ネプ投げ』のほうがよっぽど罪がない。
『盗聴法』があっさり成立した時も、少しも反対報道をしなかった今のメディアにそれを望むのは無理ということだろうか。

今、テレビは、自らの首を締めている。自己規制。権力におもねる報道。自己の報道によってもたらされる法規制の強化への無自覚。

そんな場所から、LUKEのような魅力的な無頼漢が出てくるはずがないか。
悔しいな。そう思いませんか〇〇さん。